N21B4a 対立陣営 1
足りなくてもやるしかない。誰も待ってはくれない。
調子がいい間は範囲を絞って確実に。調子がいまいちな間は範囲を広げて流れを変える。
あやは窓の外を眺めた。人はあまり通らないが、向かいの建物は古めの建築で、外壁に傷や汚れが目立つ。
ただの事実に解釈を足して自分のものとする。なぜその位置が汚れるのか、どんな理由があると傷がつくのか、高さや大きさから関連づけられるものを探す。
不動産は予想外の影響を受けにくい。地域の出来事をすべて受け止めて、別の地域のすべてを知らない結果だ。天候、車の通りかた、犬の散歩。あとは近隣に人が集まる動機を想像する。道が広いので祭りとなれば屋台を並べられる。確か地図には、神社や寺院を示す記号があった気がする。
静かな店内は厄介だが、同時に救いでもある。刺激がない空間でじっとしていたら誰だって遅かれ早かれ苦痛になる。じっとしないための何かを求めても違和感にはならない。
「
凛丹が声をかけるが、ここで奥へは行きたくない。今のあやは何を言われても牽制に聞こえる。角を立てず、かつ提案を断る。
「奥でも結局、スマホで見るものとかもないですし。そうだ、凛丹先輩の暇つぶしって何があります?」
話題をそらす。さりげなく主導権を握るには質問がいい。
「何、と言われると何かしらね。次の仕事での動き方をシミュレーションしておく、とか」
「それで手際がいいんですね。道理で」
「あら、いつ見せたかしら」
「レジ打ちのときに少し。道具を使い終えたら戻す間にもう次へ手が伸びてるの、初めて見たときは驚きでした」
蓮堂が探偵をしていた頃から見続けた技だ。相手自身が当たり前だと思っている部分をつついけばもう止まらない。相手にとっての自分が一気に重要な存在になる。
が、凛丹は涼しい顔で答えた。
「よく見てるのね。頼りになる子、好きよ」
しかも返された。あやだから気づいた。
「えへへ。ありがとうございます」
半分以上は本心から。普段は主導している反動で、甘えられる相手には弱い。知識では相手の術中とわかっているが、今は楽しみとして味わおう。
「けれど、レジから見えたの? 観察がお上手すぎないかしら」
緩んだ所に踏み込まれた。まさか義眼で記録した映像を後から見たとは言えない。顔や口調が普段通りに穏やかでも、あやを取り巻く状況は悪い。最悪と言っても過言ではない。
すでに剥き身のあやを、さらに丁寧に一皮ずつ削り取る。一気に踏み込まれれば対処もできるが、じわりじわりと侵されればどこかで豹変して強硬な手に移るしかない。では、どこで? 怪しまれずに今をやり過ごしたい状況では、適したタイミングはどこにもない。
あやは受け入れるしかない。まだ打つ手はある、まだ逃げられる。そう信じて遅滞戦術を続ける。
「真似てたら癖になったんですよ。母が観察上手で、あと父が細かい作業を終えたら休憩することも多くて、そんな流れで身につけたおかげで学校でも役立ちました」
不利な間は戦線を拡大する。将棋の格言だ。定石通りに進めば有利な側が定石通りに勝つ。覆すには多くを並べて見落としに期待する。
将棋以外では、弱い犬ほど良く吠えるとも言う。
「お母様、はじめに挨拶をくれたあの方よね。電話越しでも物知りで素敵な方と分かりますね」
凛丹は的確に一点だけを突く。どこが最も痛いかを知っている。
蓮堂が言っていた。情報は力になる。うまく使えば他の力を何倍にも高められるし、逆に持っていないだけですべてが台無しにもなる。下調べだけは怠るな。
相手も同じく下調べがある。あやは情報の価値を身で味わっている。下調べが足りなかった者がどうなるかも。
肘が笑った。焦りが義肢を刺激して油圧ピストンが縮んだ。膝も笑うがこちらは平衡感覚で気づける。肘はそうはいかない。姿勢覚が義肢には通っていない。生身ならばどんな状況でも自分の姿勢を理解できるが、義肢がどの位置にあるかは視覚や重心に頼っている。
入口の鈴が割り込んだ。助かった。「いらっしゃいませ」から客の応対を始める。少なくとも数分は稼げる。
客の彼女はあやと同じクラスの今村紗織、通称なうちゃんだ。今村は声の主を確かめると明るく手を振った。
「彩だ! 遊びに来たよ」
「いらっしゃいませだよ。席はカウンターとテーブルがあります」
「じゃあテーブルでも?」
「もちろんですとも。注文は決まりの頃にお呼びください」
心強い。応対はマニュアル通りに、少しだけくだけた言葉を混ぜて仲を匂わせる。凛丹はやや離れてクリーニング側のカウンターに戻った。今村が来たおかげで追求から逃れられた。
今村はメニューを捲る。目線は見えずとも側頭部の動きでおおよその視界がわかる。値段には席代を含めているとはいえ、同程度の価格帯なら他の店を選ぶ。調度品も広さも、カフェとしては決して上質ではない。
付加価値といえば応対する子の制服がかわいい程度だが、接待どころか視界に入る機会さえ少ない。何を期待しても外す。クリーニングの待ち時間を潰す程度の店だ。
「お願いしまーす」
今村が呼ぶので、あやが駆けつける。
「クロックマダムで」
「はいよ」あやは厨房へ向いた。「クロックマダム、お願いします」
メニューを畳む。あやへ雑談を持ちかける。
「よくやってるね。板についてる」
「ありがと。一人? なんで急に」
「彩の働きぶりを見たくなって」
「ふーん。マのバは?」
「早上がりだね。で、参考にしようって来たわけ」
話が弾む。凛丹が相手ではこうはならなかった。気軽に話せる相手かそうでないかは大きな違いになる。厨房から呼び出されるまでが普段より早い気がしたが、時計の進み具合はもちろん同じだ。
「お待たせしました。クロックマダムですよ、マダム」
「それ、誰にでも言ってる?」
「言ってないね。というか、話し込むのも普段はしない」
「へー。寂しかったね。今は大丈夫だからね」
「そんなんじゃないし」
「どうだかね」
二人だけで店を賑やかにする。一応、あやの視界に入口があるので、誰かが来ても見落としやしない。
もちろん、凛丹が歩き寄る様子も見えた。
「
「すみません。じゃあ彩、またね」
「凛丹さんすみません、緩んでました」
凛丹は穏やかに笑んで受け止めた。
「大丈夫ですよ。けれど、繰り返してはいけません」
柔らかな口ぶりだ。だからこそ不気味に映る。今村が来る前の威圧感を忘れるはずがない。意図的に振る舞っている証だ。
「
「え、本当ですか? まだ四時前ですけど」
「店は私だけでもなんとかなります。けれどご友人は
「じゃあお言葉に甘えて」
あやは着替えを始めた。今村のおかげで最後まで助かった。本人は気づいていないかもしれないが、後でお礼をしよう。
ところで。
人が思考を深める場所には共通点がある。静かで、一人で、体に触れる感覚を頼りに単純な作業をする場所。一般には風呂、トイレ、ベッドがある。更衣室も同じ条件を満たしている。
気づいたときには遅かった。クリーニングを封じられた。あやと今村が一緒に帰ると、車両を出入りするにも、駅でホームを行き来するにも、目立って変になりすぎる。できるのは尾行しやすい直帰だけだ。しかも、片方を見ていればもう片方を見つけてくれるおまけつきの。
やっぱりやめると言い出せば不自然になる。失敗への対処、こんなときのために義肢がある。蓮堂への電話を、誰にも見えない神経で操作した。応答までの時間がひたすらに長く感じる。着替えを終えて、荷物を持って、部屋を出る前にストレッチをして誤魔化した。
ようやく始まった通話は、誰にも聞こえない電気信号で。
「蓮堂、まずった」
「そうか。任せろ」
「おねがい」
電話越しでも察してくれた。すぐに切れて、再び一人になる。だからこそ頼もしい。詳しい事情を聞くまでもなく動ける備えがある。蓮堂は言外にそう伝えている。
あやは呼吸を整えて、控え室を出た。ちょうど今村が会計を始めている。
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