N14B1c アルバイト 3
贔屓目に見ても、盛況ではない。
客席を横切り事務室へ向かう。『レディ・メイド』の動線だ。横目で各席を見ておける。あやも既に理解している。
気のせいでも見間違えでもない。席の半分以上が埋まっていても、テーブルに見えるのは飲み物とせいぜい軽食だけだ。減り方を見る限り、どの客もそこそこ以上に長く居座っている。それで溢れない程度の客入りを盛況とはあやには思えなかった。
まず席の絶対数が少ない。落ち着いて数えると八席とカウンター席しかなかった。これでは閑散とした大型店のほうがまだ盛況と言える。
にもかかわらず忙しくなる日と念を押されるなら理由は二つしかない。もうすぐ本当に忙しくなるか、この店にとっての忙しい日か。
あやの目に下着と曲線が飛び込んだ。別の店員が着替えていた。咄嗟に背を向けて、壁に触れるまで進んだ。
「ごめんなさい! 覗きじゃないです!」
あやの背中に苦笑いが届いた。人によっては大袈裟と取られるのは知っていたが、あやは染みついた動きを出した。言葉も態度もはっきりと。汗臭さはふとしたときにも出る。
「新しいバイトの子でしょ。びっくりしたなあ!」
快活な声が同類を思わせた。
「本当にごめんなさい!」
「びっくりしたのは急に謝るほうね。いいって着替えぐらい」
苦笑いは態度よりも反応に対してか。気まずさの払拭は負い目が少ない側の役目だ。わかっている様子で「顔を向けて」と促した。おそるおそる振り返ると、既に黄色のメイド服を身につけていた。
「あたしは
「外国の方?」
「バリバリ日本人だけどなんで?」
あやは気を悪くしまいかと言葉を選ぶ。
「すみません、漢字がイメージつかなくて」
「それはわかる。あたしもあんまり気に入ってないし。草冠に耳のキノコ、松竹梅の竹、清いに羅生門の羅だけど、それよか気軽にキノって呼んでよ」
キノは右手を出した。肘までの手袋と半袖の間に僅かな皮膚を見せる、俗に絶対領域と呼ばれるファッションだ。四十年ほど前の流行を再評価する流れから、あやももちろん知っている。
おそるおそる握手をした。あやの生身の右手は硬さを感じた。自分の左手ほどではなくても。
「
「いろつきさん? どんな字?」
「十六歳の女って書きます。ちょうど今のあたしにぴったりです」
「おしゃれ! レア名字さんだ」
キノは着替え終えていながら、ホールに出る様子もなく雑談の構えをしている。あやが使うロッカーの前を開けた。
「ではアヤちゃん、着替えをどうぞ」
「そこにいられると、なんかなあ」
「だよねえ。ところでレースは好き?」
下着の話だ。一方的に見るだけなんて許さないと言っている。現に左目には記録してしまった。いくら覗きではないと主張しても、映像を残してそれは通らない。食い下がって勝ち目はないので、さっさと着替えを始めた。
「実際、可愛いと思いました」
「見る目があるね、アヤちゃんは。この店のベストスリーまで確定した」
「すると一番がキノさんで、二番目の方は」
キノは顔を曇らせた。手放しには喜べない誰かと示している。
「いつも厨房にいる
「そんなに怖い方?」
「顔も言葉も温和、だけどなんだか、目の前にいると全部の動きを窺われてる感じがする。獲物を狙う目みたいな。それにぱっと見で背がでかい。多分だけど百七十はあるよ」
あやも覚えがある数字だ。あの夜に手を振った女も百七十くらいだった。この場は敵の本拠地だ。楽しいアルバイト気分で忘れかけていたが、目の前にいるキノも例外ではない。もしあの時のロリータ仮面を探しているなら、ここで不安を出すのはまずい。
「あたしもキノさんよりちょっと大きいけど、怖くない?」
「アヤちゃんは怖くない。裏表なさそうだし、きっといい友達になれるよ」
ワイシャツを脱ぐとき、左の手袋も一緒にずれて、隠れていた左腕が銀色に輝いた。インナーシャツと合わせて隠すつもりだったが、見えてしまったら仕方がない。
「その腕」
今度はキノが控えめに切り出したので、お返しとばかりに笑い飛ばした。
「小さい頃に事故してからこれなんだ。かっこいいでしょ」
「かっこいい! あたしも機械いじりは好きだからさ、見てみたいな。けど、外すのはダメだしょ?」
「だね。外して動けなくなっちゃうのは怖いよ。かわりに動かす所は見せたげる」
あやはポーズを決めた。機械の腕を持つキャラクターは広い世代に知られている。特に『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリックのポーズは初老とおばあちゃん子を中心に人気で、インターネットでは勘のいいガキを嫌う男が有名なので出典を読み始める動線もある。
左腕は静かに動くが、キノは耳を澄ませるような仕草を見せた。肘を曲げて、指を曲げて、その度に油圧ピストンが動いている。グリースで摩擦を低減しても理論上はわずかながら音が出る。
「何か聞こえるの?」
小難しい顔で唸ってから答えた。
「ぜんぜん。わかると思ったのにな。腕がいいね」
ダブルミーニングだ。学校の外で同年代と繋がる感覚があやには新鮮だった。キノが本当に友達になれる相手と願う。あまり期待はしない。
小さい頃に、蓮堂に無理を言って仕事に連れて行ってもらったことがある。いかにも友人らしい相手と気さくに話して、別れたら直後にメモ帳に書き加えていた。偶然に会った友人と思って聞いていたが、本当は仕組んだ結果だった。蓮堂に本当の友人がいるのか怪しいものだ。
ああはなるまい。幼少の決意の通りに今、確かにああではない状況になっている。未熟さによって。いかにも友人らしく振る舞うには信用を見せきれず、かといって豹変もできない。
「そいえばアヤちゃん、気づいてないみたいだけど、今日これね」
引き出しからカチューシャが出てきた。全員へのお知らせの張り紙を見落としていた。キノにばかり注目していた。
「うさ耳?」
「そそ。オーナーの趣味だってさ」
「もっと派手な服と合わせるものじゃない?」
「私も思ったけど、このアンバランスさがいいんだって」
よくわからないが、きっと何か考えがある。とりあえず頭につけた。締めつけで苦しくならない位置を探す。短時間なら平気でも長く続けると痛む場合もある。休憩のたびにつけ直す。
スピーカーから声が聞こえた。凛丹とは別の声がウェートレスへ、料理を運べと指示を出す。
「この声がるる先輩ね。じゃあ行こっか」
「はあい。頼りにしますよ、キノ先輩」
「なんかむずむずするなあ!」
賑やかさをひとまず収めて厨房へ向かう。キノの横顔は落ち着いた印象になった。負けじとあやも微笑をたたえて客前に出る。
厨房の入り口前には火元責任者の表記がある。
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