トワイライトダークネス
ふたぁぐん
第1話.灰色の獣
四つ足の大きな生き物がぬかるんだ地面を歩いている。
ニワトリが地面の餌をついばむように、その獣は鼻を地面に近づけながら、のそりのそりと匂いを辿っていく。
丸太のように太く、長い首。
体毛はくすんだ灰色で、あたかも周囲に立ち込めている霧をその身に纏っているようにも見えた。
体の下半分は跳ね上げた泥によって斑模様。ゴワゴワとした体毛は使い古したボロ雑巾のように毛が氷柱のように垂れ下がっていた。
その獣の体躯はヘラジカように巨大だ。
体重は五百キロはを軽く超えているだろう。他の動物で比肩する動物を挙げるとすれば、アフリカ象を思い浮かべることがやっとで、専門家でもなければ、これに近い動物をすぐに思い浮かべることはできないに違いない。
この獣は巨大な角を持っておらず、口が僅かでも開くと鍾乳石や象牙と見間違うほどに巨大な犬歯が覗く。正面から見れば、その姿はまさしく灰色の狼のように見えるが、狼と呼称するにはあまりに巨大で歪な外見をしている。
目元の戦化粧——赤と黒が混ざった線が縦に伸び、そのすぐ上には獰猛なネコ科の捕食獣を思わせる瞳孔が。黄色とも緑色にも似つかない色の瞳をギラつかせながら、獣は標的を探していた。
当然、現実の世界にこんな生き物が存在するはずもない。
これはゲームの中に存在するキャラクターだ。
『
そして
略称としてTDとも呼称されるこのゲームは、最大で人間十二人、化物三体で行う対戦をコンセプトにしたVRゲームである。
ゲームのモードは様々であるが、今回の試合においては争奪戦が行われていた。
化物たちはマップに存在する巨大なスペクトラル結晶を防衛し、制限時間まで守り切るか、人間たちを全滅させれば勝利。逆に人間たちは、結晶を破壊することでゲームに勝利することができる。
液状の泥スレスレまで鼻を近づけていた人狼は、ついに泥から顔を上げ、ヒクつかせていた鼻の動きを止めた。
「見つけたぞ」
VRゴーグルをかけていた伊吹晒朗は呟いた。
人狼はゲームの中における現身。
現実の世界でPCデスクの前に座っている伊吹晒朗まで臭いが漂ってくることはない。
技術の進歩は目覚しく、昨今の娯楽業で主流となったのはVRゲームである。頭にVRゴーグルを被れば、暗い自室の光景が異世界の光景へと様変わり。
王道のファンタジーの世界、未来感溢れるサイバーパンクな世界、硝煙と銃声が鳴りやまない戦場、宇宙船に乗って月旅行——どこにだって、どこにでも行ける。
人類は現実、精神世界に続く第三の世界——Virtual Realityの世界を生み出したのだ。
世の中にVRゴーグルが普及し始めた当初は、ヘルメット式の頭をすっぽりと覆うようなゴーグルが主流だった。だが、発売から数年も経てば軽量化も進む。今の主流は、顔に着けていても首や肩の負担が少ないメガネ式のVRゴーグルである。
晒郎が使っているVRゴーグルはメガネと遜色ない形だ。
見た目は水泳ゴーグルに近い。十年ほど前の日本人に、このVRゴーグルをつけた人間の姿を見せれば、部屋の中でサングラスをかけているのかと眉を潜めることだろう。
視界を覆う薄いレンズは液晶画面になっており、電源を入れれば現実のものと見間違うほどリアルな映像が映し出される。人間の視野は最大で二百度。ディスプレイを見ていた旧型のゲーム機世代とは異なり、視覚をフルに使ったゲーム体験をすることができる。
コントローラの進化も目覚しい。
棒状のコントローラーを握って操作する時代は終わり、今主流となっているコントローラーはグローブ型である。センサーが付いたグローブを手に嵌めて操作するインターフェースであり、進化したマウスと共に直観的な操作を行う。
VRが登場したのが第一世代だとすれば、今は第二世代。第三世代に移行すれば触覚や臭いまで再現できるのでは——と言われている。
それが実現するのは遠くない未来のことだろう。
晒郎の人狼——グレイは駆け出した。
争奪戦が始まってから、ゲームは中盤戦を迎えていた。
引いたマップはアブラナ湿地帯。
このマップの特徴はマップの中央に険しい山がそびえ立ち、周辺には湿地帯が広がっているという特異な地形にある。
グレイたちが防衛するスペクトラル結晶があるのは、山腹の内部にある迷路のように入り組んだ洞窟の中。最深部の広いドーム型の空間に結晶が存在していた。
ゲーム開始時点、グレイたちはここにスポーンした。
対して人間たちは、山の周辺の湿地帯のどこかにスポーンすることになる。対戦相手がどこにスポーンすることになるのかは完全にランダム。
北か南なのかも分からない。
ただ確実に言えるのは、人間と化物がスポーンする位置は、ある程度距離が離れた位置であるということぐらいだ。
結晶を破壊しに来る人間たちと戦うためには、まずは敵を探す必要がある。
ただ、このマップ——アブラナ湿地帯は索敵が難しい。
野外は常時、真っ白な濃霧が立ち込めており、山という高所から見下ろしても湿地帯の様子は何も見えない。山を下って湿地に降りても霧が晴れることはなく、今度は沼地という悪路に足を取られる。
霧の濃さはゲーム中もリアルタイムで変化するが、濃度が最大になると自分の周囲が見えなくなるほど視界が悪くなる。
今回の争奪戦ではグレイたち化物が防衛側。
対戦相手のプレイヤーが結晶を破壊しに来るのであれば、いずれにせよ彼らは洞窟にやってくる。ならば、防衛対象であるスペクトラル結晶を守るためには洞窟の奥で待ち構えていたほうがいいように思える。が、それは戦力的に分の悪い行動だ。
今回の試合において、グレイたちのバンド編成——他のゲームで言うパーティー編成——は、人狼、
残りの二人が死人と愚者を操作している。
——どうせ人間たちが結晶を破壊しにくるのであれば、ここで待っていればいい。
初心者ならば、そう考えてスポーン地点である最深部のホールで待ち構えようとするが、それが通用するのは対戦相手が中級者までの話である。
確かに、事前に詠唱することで結界や罠を張ることができる愚者のような種族は有利に立ち回れるかもしれない。
だが、人狼のような種族にとっては地の利が薄い。
そもそも奇襲と追跡に特化した人狼は爆発的な攻撃力を持っていても、HPや防御力といった面では非常に心許ないステータスだ。
人間たちと戦う時は物陰に隠れて、遠距離攻撃を避けつつ、隙をついて人間と戦うことが必須である。
いわゆるキャンプ——結晶の前で陣取る行為——は戦力の集中という面では有効性があるものの、それぞれの化物の特性を殺してしまい、かえって総合力は低くなる。
HPの高い耐久型の化物が仲間にいるのなら選択の1つに入るものの、グレイたちにとっては不向きな戦略だ。
正面から堂々と飛び出して戦うような愚行を犯せば、あっという間にHPが溶けて力尽きることになる。仮に、結晶がある場所で待ち構えていても身を隠す場所がなく、集中的に攻撃されればグレイの身は持たない。同様のことが死人に関しても同じことが言える。どちらも正面切って戦うようなタイプではないのだ。
実際のところ、この化物三体のバンドの総合力を評価するのなら器用貧乏といった表現がしっくりとくる。
あるゆる状況に対して対応できる汎用性を持っているものの、特定の状況に強く対応できるように組まれたバンドに比べれば、いまいち決め手に欠ける。そこは何とかチームワークと腕でカバーしようというのがグレイたちのパーティ方針なのだが——
内部で待ち構えていても負けることは分かり切っていた。
正面から戦えば、このメンバーでは火力不足と耐久力不足が否めない。
三体で守りを固めても十二人相手では恐らく負けることが容易に想像できた。
唯一、環境とマッチするのは愚者だけだが、それでも分が悪い。
愚者は事前に魔法を詠唱して敵に備えることができる。
だが、それは敵も同じだ。
味方の防御力強化や魔術耐性強化の各種バフ魔法の存在がある。単純に防御力を高める障壁を張ったり、攻撃力を高める魔法などがあるが、いずれも事前に唱えておくことで味方の攻撃力や防御力を向上させる魔法だ。
本来、魔法を発動した時、自分たちの居場所が化物に露見する危険を常に伴っている。探知系スキルを持った化物が相手なら、人間が魔法を発動した瞬間、位置が露見。襲撃を招きかねない。平時にバフ魔法を使うのは位置バレというリスクが伴う。
だが、化物三体全員が結晶の近くにいることが分かれば話は別だ。
リスクなしでバフ魔法をかけ放題。
キャンプしていることを知られてしまえば——勘づかれてしまえば、むざむざ敵にバフ魔法詠唱するための猶予を与えることになる。敵にしてみれば化物が陣取っていることは丸分かりであり、わざわざ有利な場所から洞窟に打って出るとは考えられない。位置を把握し、攻撃される心配がないのであれば自分たちにバフをかけ放題というわけだ。ただでさえ戦力的に不利なのに、さらに開きができてしまう。
故に、事前に敵を消耗させ、プレッシャーをかけ続けることが肝要である。
一見すると反射神経を問われる対戦ゲームように思えるが、有り体に行ってしまえば情報がものをいうゲームだ。人間たちのパーティーが戦士や騎士といった前衛職に比重を置いているのか、それとも魔法攻撃に特化した魔術師や魔導士、召喚士、聖職者といった後衛職に比重を置いているのか分かるだけでも対応は変わってくる。
そのため索敵の重要度は高い。
接敵した際、相手の職業を知ることができれば仲間と共に事前に対策を練ることができるし、常に誰かが目を光らせることでプレッシャーを与え、バフに対する圧力をかけることができる。バフをかけている途中に襲われるかもしれない、と積極的な索敵行動は抑止として働く。
索敵した折、少なからず相手に負傷や状態異常をバラまければ対戦相手のMPやポーションといったリソースを削ることができる。何もせずに洞窟に陣をとるよりも積極的に索敵を行うことは必要な行動なのだ。
洞窟に辿り着くまでの間に、いかに相手のリソースを削るか——勝負の行方はそれにかかっている。
ゲーム開始直後、マップがアブラナ湿地帯であることが分かった途端、グレイたちは、各々が即座に動き出した。
グレイたち化物三体は、全員が長年バンドを組んで戦ってきたフレンドである。ゲームに登場するマップの特徴は把握しているし、いちいち声で知らせなくても連携ができるほどに付き合いは長い。やるべきことは体に染みついていた。
その場に愚者と死人を残し、グレイは洞窟の外へと出た。
暗いの地の底を抜けた先にあったのは濃霧と雨の世界だった。
動体視力に優れたグレイの目であっても、数メートル先はボンヤリとしており目視で敵を探すことは難しい。雨が地面を叩く音がひっきりなしに耳元で響いている。
PCゲームであるため臭いや感触まではしないものの、最新のグラフィックボードやCPUを導入したおかげで現実と遜色がないほどリアルな質感を持っている。それこそ呼吸をすれば雨の臭いが本当にするのではないかと思うほどに——
運悪く発生した降雨。
このマップは霧だけでなく雨も降る。
霧の発生による視野の悪さ。雨音によって聴力による索敵にも頼ることもできない。索敵の難易度はさらに上がり、彼らを探すことはいっそう難しくなった。
——これは苦戦するな。
グレイは苦々しく顔を歪めた。
その予感は正しく、湿地帯を走り回りながらも索敵を行っても痕跡の1つも見つけることができなかった。足跡はおろか、臭いさえ残っていない。
索敵に失敗すれば、無傷で洞窟まで人間たちがやって来てしまう。
相手のパーティー編成も不明なまま、不利な場所での戦闘を強いられるのはかなり不利だ。といって、この広いマップから人間を見つけるのはフィールド環境からいって難しい。
これはいよいよ探し出すことは不可能か、とグレイは洞窟に戻ることも視野に入れ始めた。
諦めかけたその時、グレイは己の足元にソレを発見する。
ゆかるんだ湿地帯の地面に、うっすらと足跡が残っていたのだ。体重がかかり窪んだ泥には人間のブーツの形に合わせて水溜まりができている。
降雨によって消えつつあった足跡。
少し前に誰かがここを歩いていたことを示すものだった。
それだけではない。グレイは自身の鋭敏な嗅覚によって、現場に残っていた残り香を頼りに人間たちの行先を知ることができた。
臭いの探知に成功した瞬間、VRゴーグルのディスプレイには臭いを表すモヤモヤとした色付きの煙のようなものが浮かび上がる。
その濃度と臭いの種類は、つい先ほど数人の人間たちがここを通ったことを示すものだ。
——見つけた。
灰色の獣は、姿勢を低くしながら獲物の追跡を開始した。
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