停滞前線
カラス
日々の流れ
何の変わり映えもない日々であった。
起きて、講習に行って、帰ってくる。いつから始まったのかも覚えていない毎日を、今日も明日も明後日も繰り返している。同じ日を繰り返しているのではと聞かれても否定する言葉が見つからないほど、僕の頭は停滞していた。
刺激となるようなものを探せばいいのだろうが、受験生であるというあやふやな意識が自分を娯楽から遠ざけている。することといえば、勉強、勉強、勉強。受験生みんながこうであるわけではないと思うが、少なくとも周りがそうなのだからそうするしかない。今日もコツコツ積み上げる。未来への漠然とした不安に備えて。
自分がしていることは意味があるのだろうか。いくら勉強してもキリがない。千里の道も一歩からというが、いくら積み上げても届かないあの頂上はひょっとすると発散しているのかもしれない。こうした理系受験生の病気みたいな考えも、頭の中の微小な思考でしかないのだ。現実は何も変わらず続いていく。
そんな日々の中のあるとき、特異点は突然現れた。
元からありはしたのだろうが、僕が気づいたということが重要なのである。このほんの少しの存在が、自分にどれだけの潤いをもたらしたことか。
意識し始めたのは塾に行く途中のことであった。いつも通っている道の途中に網目のフェンスがあるのだが、その側にクマのぬいぐるみが置いてあるのだ。手に乗るくらいの大きさで、少し汚れてること以外なんの変哲もないぬいぐるみだ。見つけた時は小さい子が落としたのかな、という感想しか浮かばないような、それだけならば繰り返される毎日の巨大な渦の中で消えてしまうような異変だが、時間が経つにつれ事情は変わっていった。そのぬいぐるみが、少しずつ上がっているのだ。
最初、地面の上にあったぬいぐるみは、次の日にはフェンスの一段目に座っており、一日経つにつれ一段、また一段と上がっている。落ちることも留まることもせず、少しずつ確かに上昇している。小さい頃ならば逆に気づかなかっただろうが、変わり映えのない日々の中で僅かな変化に敏感になっていたのかもしれない。
誰が上げているのか、どんな理由でしているのか。疑問はたくさんあったが、何より気になったのは「登りきったらどうなるのか」ということだった。もちろんフェンスの高さにも上限があり、終わりがくることは明らかである。一段ずつ上昇するという単調な動きが、どのような形で終わるのか。全く想像もつかない。
気づくとそのぬいぐるみは常に自分の頭のどこかにいるようになった。頂上までいったぬいぐるみはどうなるのか、枯れていた好奇心が渾々と湧き出す音が聞こえた。色のなくなっていた毎日は嘘のように彩り始め、意味を見失っていた勉強も、ぬいぐるみのことを考えれば頑張れるようになった。
ぬいぐるみは着実に登り続け、それと共に期待もどんどん膨らんでいった。消えてしまうのだろうか。他のぬいぐるみに変わるとか?もしかしたら最初からやり直すのかもしれない。頭の中で何の面白みもない様々な予測が飛び交い、なんの根拠もないために消えていった。終わりがくることが想像できないのに、確実にくるということだけは分かる。そんな奇妙で今まで体験したことのない心地で満たされ、僕の心は不思議な幸福感を感じていた。
そして、ぬいぐるみはついに頂上に着いた。
講習が終わり、ぬいぐるみの位置をちゃんと確認してから家に着いた僕の心の中は、最高潮に達していた。久しぶりに感じた好奇心。長く待ち望んでいたものが、明日やってくるのだ。震えが止まらない。
思えばぬいぐるみにはかなりお世話になったと思う。ぬいぐるみのおかげで好奇心を思い出し、勉強にモチベーションができて、毎日の繰り返しには彩りをつけてくれた。感謝しても仕切れない。
そう思うと、ふと心配になった。終わりは必ず明日くる。刺激のある日々は、明日で終わるのだ。講習に行くときも勉強をするときも、ぬいぐるみのことを考えてなんとかやってきた。それ以前は一体どうしてやっていけたのか思い出せない。これからどうしていけばいいのかも分からない。駄目だ。僕にはあのぬいぐるみが必要だ。
なんとかしなければ。
焦った僕は家を飛び出し、なんの考えもなしにぬいぐるみの方へと走っていった。
どうしようか。また地面に置き直すか。いっそのこと持って帰ってしまおうか。
もはや自分の意志など、どうでも良くなっていた。なんとかしなければ明日からどうしていいか分からない。未来への明確な不安が僕を突き動かしていた。
フェンス前に着くと、ぬいぐるみはまだそこにいた。ああよかった、まだ終わっていなかったと思うと同時に改めて自分の無策さに気づいた。何をすればいいのだろう。どうしようかと考え、とりあえず手にとろうと思って、僕は希望に手を伸ばした。
するとぬいぐるみは突然立ち上がり、宙へと身を投げた。
少し前まで待ち望んでいた結末。想像もしていなかった終わり方。
だめだ、終わらせないでくれ。希望を断たないでくれ。
焦った僕は体勢を崩しながらもぬいぐるみを掴もうと動いた。周りがスローモーションのようにゆっくり流れ、落ちていくぬいぐるみの動きもはっきりと見える。
必死に伸ばした手がぬいぐるみに僅かに触れた瞬間、世界は歪んだ。視界が捩れ、意識は遠のき、そのまま僕は倒れ込んだ。
気づくと、僕はクマのぬいぐるみになっていた。後ろにはフェンスがある。
登らなければいけないということを、本能的に察した。僕が見ていたぬいぐるみも、一段一段上がっていた。きっとやらなければならないことなのだろう。
この目線からだと、フェンスは果てしなく高く見えた。これを上らなければならないのかと思うと辟易し、果たして一体いつ終わるのだろうとため息をついた。
ああ、こんなことならば結末までしっかり見ておくんだった。
これでは前となんら変わらないではないか。
停滞前線 カラス @karasu_14
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