グータッチ

葦沢かもめ

1.彼はライバル

 一隻の木造帆船が、険しい岩山のようにそびえる大波に揺られている。荒々しい風が帆布を膨らませるたびに、マストはキィキィと折れそうな音で鳴いていた。

 甲板上に立っている僕は、目の前の仮想キーボードに「その時、巨大なクジラが悠々と姿を現した」と打ち込む。

 すると波間から、のっそりと黒い巨体が浮き上がってきた。

「いいぞー!」

 観客席から歓声が上がった。いいねを示すハートマークが投げこまれ、僕の頭上に表示されたいいね数がぐんぐん増えていく。神経終末からほとばしるアドレナリンが、仮想キーボードを叩く指先の感覚をますます鋭敏にしていく。

 ここは、インターネット上の仮想世界「ドリーム」にあるライブライティングのステージ。投影されている海の三次元グラフィックスは、僕の小説から立体映像生成AI「ホロホロ3D」が自動的に生成したものだ。海も帆船もクジラも、全てが僕の想像の産物である。

 このタイミングを逃してはいけない。僕は間髪入れずに「船はクジラの攻撃を蝶のようにかわして、大空へと舞い上がった」と入力して、エンターキーでホロホロ3Dへと手渡す。

 その途端、黒光りしたクジラの尾ビレが宙に高々と掲げられ、次の瞬間には船に向かって鎌のように振り下ろされた。僕の乗る船はそれを華麗に避けると、まるで重力に引っ張られていた糸が切れたかのように水面から浮かび上がって、どこまでも高く飛んでいった。狙い通りだ。

 観客席では、熱狂の渦が巻き起こった。

 しかし僕はすぐに気づいた。この盛り上がりは僕に向けられたものではない。

 僕のステージから観客席を挟んで反対側に、もう一つ立体映像が投影されたステージがある。そこでは銀髪の青年がギターを弾いており、その隣ではブロンドの女性がピアノの鍵盤を叩いている。巧みな指遣いからこんこんと湧き出すハーモニーは、妖精となって観客たちの目と耳を虜にしている。演奏者たちも妖精も、もちろん立体映像だ。

 ホロホロ3Dに小説を入力して魅力的な音楽を奏でることは、不可能ではない。だがそれは、あくまでも原理上の話だ。情景を言語化すると同時に心に響く音楽も創り出すなんて、常人のなせる業ではない。僕は向こうのステージ上で仮想キーボードをタイプしている作家に目を向ける。そこにはウサギのぬいぐるみを模したアバターが立っていた。左目につけた眼帯がトレードマーク。名前は第六筆魔王という。

 駄目だ、第六筆魔王の筆さばきを見ていたら、あっちの世界観に引きずりこまれてしまう。

 僕は必死にキーを叩いた。背中から鳥のような翼が生えたクジラが、雄叫びを上げながら空を飛ぶ帆船へ向かって体当たりする。船腹に大きな亀裂が入り、眼を血走らせた船員が「次に攻撃を受けたら沈みます!」と白ヒゲの船長へ報告をする。

「面舵いっぱい!」

 船長が威厳たっぷりに号令を出したが、それに耳を傾ける観衆はいない。

 もはや会場の空気の流れは変えられなかった。

 向こうのステージから押し寄せる音色には、悲哀が織りこまれていた。二人はお互いにひかれ合いながらも、身分の差によって望みは叶いそうにない。絡み合う視線と儚げな表情。どこかためらいがありながらも、今ともに音を重ねている相手への想いが血流となって指の先まで通っている。きっと二人の恋は叶わないであろう。でも、もしかしたら。

 そんな観客たちの祈りが届いたかのように、二人は演奏を終えた瞬間、全てから解き放たれたように抱き合った。すぐさまステージは暗転。まるで弱々しい蝋燭の炎が消えゆくその瞬間に激しく燃え盛って、ふっと消えたような余韻。

 今日行われたライブで最大の歓声が、会場に轟いた。会場の端から端まで観客が総立ちになって、第六筆魔王へと割れんばかりの拍手と最大級の賛辞を送っている。

 完敗だった。第六筆魔王のウサギのアバターが、降り注ぐハートマークに埋もれていく。

 僕は第六筆魔王へ向かって拳を掲げた。ハートマークをかき分けていた第六筆魔王も僕に気付いて、指のない手でグータッチを返す。死力を尽くして戦った相手には、最大限のリスペクトを。それは相手がAIであっても変わることはない。

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