東雲通りの文学喫茶

ShiotoSato

1. 少女と瀟洒な喫茶店

 カランコロン——というドアベルの音。


暖色を帯びた店内に、ひとつの影が入って来る。


「いらっしゃいませ——」


「こんにちは」


着崩した制服に、ズタズタのバッグ。

……ぼさっとした髪の毛。


その少女の印象を一言で表すなら、がさつ。


「へえ……」


値踏みするような視線を巡らせながら、彼女はズカズカと足を踏み入れる。


(こんな時間に学生さん……どうしたんだろう)


「こちらの席、どうぞ?」


店主である彼は努めて明るく言った。


「あ、それじゃ」


軽く会釈をして、席に着く。

彼女はまた店内をキョロキョロ。


「……珍しいですか? こういうお店」


メニュー表を差し出す。

すると彼女は、ふふっ、と笑い。


「もしかして、お兄さんがここの店長さん?」


「え、ああ……まあ店長というか何と言うか」


「ん?」


「従業員、僕だけですから」


吉祥寺通りを少し逸れたところに位置する雑居ビル。

その一階を間借りしているのがこの店——


「『literary-café』……直訳すると——文学カフェ?」


メニューの上に書かれた名前を読み上げる。


「はい。本を読みながら、ゆっくりとくつろげるカフェになってます」


「なるほど……あ、これ――」


近くの本棚から一冊、彼女が手に取って。

物凄い勢いでページを捲る。


パラパラパラ……


……。


…………。


――多分まともに読んでいない。


「……パラパラ漫画じゃないんだから」


「うーん……」


彼女は低く唸って、本棚にその本を戻す。


「本……あまり読まない?」


「進んでは読まないかも。あ、ルイボスティーひとつ」


「……」


不本意ながら、彼はカウンター奥に戻って行った。






「……ちょっと色々聞きたいことあるんだけど」


 話を切り出したのは彼の方だった。

近くの丸椅子に腰を下ろす。


「ずぞぞ……ぞぞっ?」


「あ、いや――飲んでからでいいよ」


淹れたてのお茶に口を付ける彼女。

それを邪魔しないように、じっとする。


――カフェの中に充満する茶葉の香り。

自分にとっての幸せはここにある……そう彼は強く感じた。


時間がゆっくりと流れて。


……。


「聞きたいことって?」


「うん? ああ、えっと……」


言ってみたものの、果たして聞いて良いのか――。


「……ふぅ」


と、彼女は一息つくと。


「私が不良学生だって言いたいんでしょ」


「え……」


「ふふっ、お見通しだって」


静かに笑う彼女。

そう――平日の昼過ぎにも関わらず、この少女はどうしてこんなところにいるのか。


彼は甚だ疑問だった。


「……学校、嫌なの?」


「ううん、そういうわけじゃないよ」


ハッキリと否定される。


「じゃあどうして」


「どうしてって?」


「いや、どうして学校行かないんだって……」


「それは、うーん……忙しいから、かな」


「忙しいって何が?」


「……そんなの何だっていいでしょ~」


はぐらかされてしまった。


「もー。そんな野暮ったいことばっか訊くと、女の子に嫌われちゃうぞ」


「……」


「とにかく私は学校なんか行ってる暇ないの」


ふてくされた表情で、彼女は言った。


「でも学校サボって来る場所が……ここか? どうせサボるなら他に色々あったでしょ」


「たとえば?」


「……例えば、そこの商店街にあるゲーセンとか」


「あー」


「近くの映画館とか」


「あー」


「……どうしてここなの?」


「あー」


聞いちゃいない。


「……強いて言うなら」


「?」


「人が居なかったから……かな」


そう言って彼女は辺りを見回す。

……昼下がり、ガランとした店内。


広々とした間取りが、余計に寂しさを感じさせる。


「私、人混み苦手だから。結構助かったよ?」


この時間帯は他の店に客が流れることが多い。

彼にとって――その言葉は痛かった。


「う……こ、これでも土日は結構賑やかだから」


苦し紛れにそんな言葉が出る。


と――。


「……あれ、雨?」


外から聞こえて来る、静かなノイズ。


たちまち音は大きくなっていって。

気が付けば、窓を大粒の雨が打ちつけていた。


「うわっ――」


眩い光――。

その直後に、遠くからの轟音。


夏の天気は気まぐれだ。


「……ひどいな、これ」


彼は、窓際から外の景色を見やり。


「君、傘は?」


「持ってないよ」


彼女は困り眉になりながら答える。


「なら、止むまでここにいると良い」


そう提案すると、彼女も納得したように頷いた。





 飲み終わったカップを片付けながら――彼は、ふと思いつく。


「そうだ――さっきの本」


「ん?」


「どうせ待つぐらいなら……」


持っていたカップを机に置き、本棚から一冊を彼女に手渡す。


「田邊先生の著書、『機械仕掛けの如雨露じょうろ』。さっき君が取った本だ」


「……あ、うん」


「非常に完成度の高いミステリーなんだよ。手に汗握るような展開、主人公に隠された壮絶な過去……そして、この作品を語るうえで欠かせない衝撃のどんでん返し」


「……」


「小説っていうのは最後まで読まないと分からない。これは本当に――」


「いや、私、これ読んだことあるから」


「え――!?」


頭上に雷が落ちたかのような感覚が、彼を襲う。


衝撃だった。

何せ彼女はつい先ほど――


「本は進んで読まないって……」


「進んでは、ね。人に勧められた本だから」


「……」


「そんなに意外だった?」


少し驚いた顔で笑う。


「じゃ私、この本にしよっかな」


そう言って彼女は別の本を取ると、席に座ってページを捲り始めた。


と、その時。

――店内にドアベルの音が鳴り響いて。


「……いらっしゃいませ。あ、塩口先生」


「いやあ、急に降ってきたもんだからビックリしたね……」


塩口と呼ばれた大柄の紳士は、傘を畳むとカウンター席に着いた。


「こんな中……お疲れ様です」


「……日向ひなたくんこそ、諸々お疲れ様。事情聴取……受けたんだろう?」


「事情聴取……? ああ、そっか――」


――桐谷日向は、思い出す。

つい最近起きた事件のことを。


「先生は今日、その件で?」


「ああ。ついでに寄ろうと思って……ここに」


ホットコーヒーを一つ、という注文を聞き、戸棚からコーヒーミルを取り出した。


暖かなベージュ色が懐かしさを感じさせる――日向のお気に入りの品。

丁寧に豆を砕き、粉状にする。


「ご苦労様です」


「……いや。大したことじゃないよ。私だって、早く解決してほしいと思ってるから」


「……」


「本当に……残念だったね。田邊先生の件は」


「ええ……」


サイフォンでじっくりと加熱していく。

ぼこぼこ…とフラスコの中でひしめき合う泡は――線香花火のようで。


「でも……今回の件で一番気の毒なのは、残された娘さんじゃないでしょうか」


「……うーむ」


「……」


長い沈黙。

日向は耐えきれなくなり、ふと遠くを見やる。


すると。

本の陰から――二人を覗く彼女の姿。


会話が気になったのだろう。


「おや……あの子は?」


「ああ、あれは――」


名前はまだ聞いていなかった。


「――不良学生ですよ」


そう言うと、彼女はあからさまにムスッとして。再び本を読もうとし――


「あれ、その本……ひょっとしてじゃないかな?」


「え?」


塩口の何気ない言葉――

彼女は、驚いた表情を浮かべる。


「やっぱりそうだ。私の書いた本だね」


「……」


困惑する彼女。

それを見た日向は、本棚の近くに行き。


「先生方にご贔屓にしてもらってるおかげで。ここの本は全て貰い物なんだ」


「へえ……なるほど」


いっぱいに敷き詰められた本の数々。

著名な作家の作品もあれば――作家の卵、と言えるような気鋭の若手たちが執筆したものまで。


彼女は感心したように、本棚を見回す。


「君が今読んでた本――『チェシャ猫の摩天楼』も、塩口先生の新作なんだ」


「読んでくれて嬉しいよ。いやあ、まだまだ若い奴らには、負けたくないからね……」


そう言いつつ、額をポリポリと掻いた。


「ところでお嬢ちゃん……不良学生とか?」


「……」


彼女の眼差しが、日向を刺す。


君が言ったんだろ――。

そんな目線を日向も返した。


「親御さんにはバレてないのかい?」


「……あ、うん」


辿々しい返事。


「だ、大丈夫。バレてないよ」


恐らく嘘だろう――日向はそう思った。


「まあ、どちらにしても……」


塩口は深く溜め息を吐く。


「……女の子が独りでほっつき歩くんじゃない。最近、ここらへんは物騒なんだから」


「物騒……?」


「ああ。お嬢ちゃんは知らないかい? 先週、そこの井の頭公園で水死体が打ち上がった――って話」


「……」


途端に彼女の顔が、青くなる。


「田邊先生と言ってね、この店にもよく一緒に来る仲だったんだが――」


「ちょ…ちょっと塩口先生…」


「ん?」


日向が止めた時には、もう遅かった。


彼女は口を押さえながら――そのままトイレに駆け込んで行って。


「あ…」


「…ちょっと僕、様子見てきます」


「うん…済まないね」


塩口は心底申し訳なさそうな表情で、日向を見送った。





「…落ち着いた?」


「うん…」


 個室の外から、そっと声を掛ける。

あれから既に一時間半が経過していた。


「…先生、さっき帰られたよ。『無遠慮で済まなかった』って」


「……そっか」


彼女の声色は穏やかになっていて。

日向も、ホッと胸を撫で下ろした。


「まあ、落ち着いたらでいいから…今日はもう帰った方が良い」


「……」


「…結局雨は止みそうにないし。お客さんも殆ど来ないし。商売あがったりだよ、全く」


やり場のない感情を独りごちる。


「……」


「あ…傘なら貸すから。心配しなくても平気」


すると…個室のドアが開き。


「ふふっ…」


優しく笑う彼女が、姿を見せた。


「…ありがとう」


「え…あ、うん」


「…もう、だいぶ落ち着いたから」


彼女は自ずと歩き出すと。

そのまま、席まで戻ろうとして――






「あ、おかえり――ってあれ?」


 ――見知らぬ女性に、声を掛けられた。


「え、ちょっと琴夏ことか先輩…この子」


その隣には――同じく見知らぬ男性。


「ああ、ごめんごめん…その子は」


後ろから続いて来た日向が姿を現す。

すると――


「…日向?」


「え…」


琴夏――という名前で呼ばれたその女性は、日向の前に立ち塞がり。


「話の途中でトイレ行ったと思ったら――何なの、この子は?」


物凄い剣幕で問い詰める。


「ちょちょちょ――え、いや、待って」


日向の声を無視し、琴夏は少女の手を取って。


「…大丈夫? ひどいことされなかった?」


「う…うん」


「もうお姉さんが来たから安心して。こいつは――ボコボコにしとくから」


隣にいた男性も、彼女の側に立ち。


「日向先輩…そんな人だったなんて…」


「ちょっと明彦あきひこまで――い、いったん落ち着け!僕の話を聞け!!」






「――と、そういう訳だ」


「……」


「……」


「……」


「え、なんで君まで黙ってんの…」


琴夏に抱かれている少女。

君がリアクションしてくれないと、僕はこれから犯罪者扱いなんだが――。


日向は涙目になる。


「じゃあ、この子には何にもしてないんだ?」


「…そうだって言ってるだろ。てかそれ、もう五回ぐらい訊かれたんだけど」


「先輩は信用ならないっすからね、そこらへん」


「お前は余計な口挟むな。僕を変態にしようとしないでくれ」


「いや先輩は既に変態っす。どうせ吉祥寺なんかに店を構えたのだって、良い感じのお姉さんを取っ捕まえる為でしょ? はー…やらしっ」


違う、そんなわけない、先輩は変態っす、日向は変態に違いない――


そんな押し問答を繰り返していると。


「ふふ、あははっ……」


少女が、もう堪え切れないといった様子で笑い出した。


「な、何かおかしかったか?」


「うん。すっごく可笑しいよ…」


ふんわりと笑うその姿は、何故か幸せそうで。


「ねえ、お兄さんとお姉さんは…日向さんのお友達?」


「え? ああ、うん…こいつが高校の時同じ部活で」


日向が言うと、その女性は立ち上がり――


「出版社のほうで編集やってる、雨宮あまみや琴夏ことかです。よろしく、えっと…」


琴夏が日向に視線を送る。


「ごめん…この子の名前は?」


「え?」


目の前にちょこんと座っている、少女。


(…そういえば、まだ名前聞いてなかったな)


「あ…私の名前?」


「…嫌じゃなければ」


考え込むような表情。

少々逡巡していたが、やがて。


「私は…白川、しおりって言います。詩を織る――って書いて」


詩織。

この喫茶店に、とても似合った名前だ――


図々しくも日向はそう感じた。


「詩織ちゃん、っすか! めっちゃ可愛い名前じゃん」


「……」


琴夏に、殺意の目で見られる。


「…。お、俺は三野みの明彦あきひこっす。まだデビューしたての新米作家。よろしくっす」


「明彦と僕が知り合ったのは…えっと、サイン会?」


「そうっすね。田邊先生のサイン会――って、あ…」


しまった――

日向と明彦は顔を見合わせる。


けれど詩織は、大丈夫、と言って。


「わたし、その事件のこと…知っておきたい」


「あ、ああ…」


彼女の眼差しは真剣だった。


「どこから話せばいいかな…」


「…そもそも分かることが少なすぎるよ」


琴夏が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「とりあえず…現状分かってることは二つ」


「うん…」


「一つ目は…現場の状況から、他殺で間違いないということ」


詩織はただ淡々と頷く。


「二つ目は…"犯人"が見つかっていないということ」


「…俺らも、事情聴取受けましたもんね」


明彦の表情は強張っていた。


「そんな訳で。ここら辺一帯は今、かなりきな臭くなってる」


客が少ないのは、その影響もあるだろう――それが日向の見解だった。


「…犯人の動機は?」


「さあ。でも…先生は、誰かに恨まれるようなことをする人じゃなかったよ」


「……そっか」


詩織は、悲しそうに項垂れた。


……。


重い沈黙が流れる。


「…あ、そういえば」


その空気を断ち切るように、明彦が口を開いた。


「さっき塩口先生来てたんすよね?」


「…あ、ああ。すぐ帰っちゃったけど」


「くっそー…今日こそはこれ見せて、ぎゃふんと言わせてやるつもりだったのに…」


そう言って、彼が鞄から取り出したのは――


「うわっ何だこれ――原稿か?」


びっしりと文字が書き殴られた用紙。

その数は100枚を優に超えている。


「…明彦ったら諦めが悪いよね。おかげで私、今日オフだったのに何故か付き合わされてるし」


「でも俺と先生だけじゃ、どうせまたバチバチになってたっすよ…」


明彦が頭を掻いて、申し訳なさそうにした。


「えっと…明彦さんが、あの先生に原稿を見せるのはどうして?」


詩織の素朴な疑問が飛ぶ。


「あー、それはね…塩口先生が出版社の偉い人と繋がってるからよ」


「……?」


「要は…をするために、先生に擦り寄ってるってわけ」


「ちょっと琴夏先輩、擦り寄るなんて人聞き悪いっすよ…」


「でも事実じゃん」


うぅっ、と明彦は顔を顰めた。


「作家デビュー…? それじゃ、明彦さんが新米作家って言ってたのは…」


「ああ…こいつが勝手に言ってるだけ」


バッサリと切り捨てる日向。


「でも俺は絶対に作家の素質があるっすよ! 面白いストーリーとか、頭の中ではいっぱい…」


「いやだから…それを文章に落とし込まないと意味ないんだって。ちゃんと読者が付いて来れる形で。塩口先生も散々言ってたでしょ」


「こ、琴夏先輩は手厳しい…」


明彦は物憂げに原稿をしまった。


「まあ別に、明彦の考えるストーリーは面白いと思うけどな、僕は…」


「日向先輩…」


「全然悪くないと思う。ただ改善の余地があるってだけで」


明彦が嬉しそうに顔を上げ、日向を見つめる。


「先輩だけっすよ、俺の作品を否定せずに読んでくれる人! マジで神! 尊敬!」


「う、うるさいな…さっき僕を変態呼ばわりしてたのはどこの誰だよ」


「細かいこたぁいいんすよ、細かいことは」


笑顔を浮かべる明彦。


「詩織ちゃん…実は日向先輩も、小説書けるんすよ」


「え?」


「それも結構ちゃんとしたやつね」


琴夏がそう付け加える。


「俺ら、原稿読ませてもらったことあるんすけど。いや何か…すごいこだわりっていうか、執念じみた感じっていうか…」


「うん…ホントに、仕事にしてないのがもったいないくらい」


その声色。その眼差し。

琴夏は、本当に残念といった様子で。


日向も思わず唸ってしまう。


「…高校生の頃、出版社が主催の小説コンテストみたいなのあってさ」


「あ…それ、私の高校にもチラシ来てた」


「ああ…それじゃ、今も続いてるんだね」


日向は感心して頷く。


「それで…最終選考まで進んだ作品は賞の有無に関わらず、選考委員からのコメントが貰えたんだ」


「……日向さんの作品は?」


「うん。最終選考まで、一応残って…でも入賞には至らなかった」


「……」


「…それだけなら、まだ良かったんだけど」


「…?」


「選考委員からのコメント――『文章にメリハリがない』とか、『展開が面白みに欠ける』とか。結構ボロクソでさ」


「……」


詩織は、ただただ呆然としていた。


「それで心が折れちゃって…自分の書いたものに自信が持てなくなって。人から批評されることが恐くなった」


「…だから、俺らにだけ原稿見せてくれたってことっすね」


「うん」


時計の秒針が、静かに音を立てる。

じっとしていると聞き入ってしまいそうで――どこか魅力的だった。


雨は止まない。

外の世界は紺色を湛え、暗澹とした景色を映し出したまま――


「今日はもう帰った方がいいんじゃないか? もうすぐ夜だぞ」


日向が時計に目をやると、既に5時を回っていた。


「…そうだね。そろそろ、お暇しますか」


「明日も来るんで。その時は先生にバシッと、原稿突きつけてやるっす」


琴夏と明彦が立ち上がる。


「さ、詩織ちゃんも行きましょ?」


「え?」


突然名前を呼ばれる。

詩織は、意表を突かれたような様子で。


「当然っす。皆で帰った方が、安全っすからね」


明彦も彼女の言葉に賛成だった。


「…詩織ちゃんはそれでいいかな? 僕としてもその方が安心なんだ」


日向がそう言うと、詩織は迷わず頷き。


「うん、分かった」


どこか嬉しそうな表情を浮かべた。





「…それじゃ、気を付けてね」


 降りしきる雨の中。

日向は、その少女にそっと傘を手渡す。


「…日向さん」


「ん?」


「ここ…とっても良いお店だよね」


「え、ああ…うん」


突然の言葉で。

返事が思わず曖昧になる。


…降りしきる雨の音。

不思議と、それは――静謐を湛えていた。


「詩織ちゃん、行くっすよ~」


少し遠くから明彦の声が届く。

すると彼女は、踵を返し――


「明日…傘、返しに来るね」


そう言い残して、二人の元に駆けて行った。


「…おいおい」


――もしかして明日もサボる気か?

日向は呆れつつも、どこか嬉しくて。


雨垂れる屋根の下。

湿ったペトリコールが、頬を撫でる。





その翌日のことだった。





――塩口昭介が、遺体で発見されたのは。

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