宵闇の君

第一話

「――



 その瞳の奥に、以前までの「彼女」の面影はない。

 けれど、どこか期待してしまうのは、彼女の瞳がそう思わせるからだろうか。


 彼女の寝台に張られた天蓋が、酷くもどかしい。その奥で、ここがどこで自分が何者かも分からず、不安の中で蹲る少女が夜宵王やよいおうを窺っていた。


「如何した、月詠?」


〝夜〟を纏う王はできるだけ少女を怖がらせまいと小声で問う。そうすれば、おずおずとしながらもゆっくりとその小さな身を寝台から乗り出した。


「……わたくしは、つくよみともうすのですか?」


 その幼子の愛らしい〝問い〟に、彼の表情は思わず綻んだ。

 不安の色の滲む瞳が夜宵王に向けられている。彼は静かに少女に近付き、天蓋の前に跪く。天蓋に触れ彼女に手を差し伸べようとするが、彼の手は天蓋と空気中に存在する見えない膜によって拒まれる。

 煩わしい。

 夜宵王は伸ばしかけた手をゆっくりと着物の袖元へと仕舞い込んだ。そしてひとつ息を吐き、少女に微笑んだ。


「ああ、そうだ。そなたは〝月詠姫つくよみひめ〟。月の化身であり、この世の民を闇から照らす者。そして私の……」


 私の、なんだろう。夜宵王は口を固く結んだ。


 恋愛的な感情はとうの昔に置いてきた。そのはずだった。けれど、代替わりが起こる度に彼女は自分に関する事柄のすべてを丸ごと忘れてしまう。


「……私の、だ」

「とも……?」


 月詠姫が天蓋の膜に触れた。ふわりと膜は揺れるだけで、夜宵王に彼女の手は届かない。触れたい気持ちと、超えてはならない一線に月詠姫の心は揺らぐ。

 どこか不思議そうに眉を八の字にして月詠姫は目の前に跪く〝夜〟を見つめる。彼は少しだけ目を見張り驚いたような表情をしていた。


「どうして、悲しいお表情かおをなさるのですか……?」

「え……?」


 決して届かぬ月詠姫の両手が、夜宵王の頬を包むように丸みを帯びる。彼女の優しさは触れずとも伝わる。夜宵王が動揺を見せたのは、ほんの一瞬であった。


「……いいや。なんでもない」

「……?」


「彼女」の面影はない。けれど、確かにそこに彼女は存在した。夜宵王にはそれが嬉しかった。


「我が名は夜宵王。夜を齎す者。……これからよろしくな、月詠姫」


 彼女への想いが胸の内で燻ぶっていることに目を瞑る。



 好いてはならぬ。

 愛してはならぬ。

 以前までの「彼女」のことを、彼女に伝えてはならぬ。



 始まりから何度も経験してきたことだったはずの『出逢い』と『別れ』は、いつでも「彼女」を彷彿とさせる。「彼女」の残り香があることに、夜宵王は少しだけ安堵した。


 しかし同時にそれが〝罪〟であることも理解していた。


 触れることの叶わない高嶺の〝月〟は、ただ何も知らぬ純粋無垢な水晶のような瞳に、宵闇の君を映していた。

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