第2話 明日のために、競馬はある


 幼馴染の王子から婚約破棄を宣言された直後、どうにか帰り着いた自室。

 エトワールは古い化粧台の鏡を覗き込んだ。

 さすがに頬は青ざめていたけれど、面差しからその誇りは失われていない。高く結われた亜麻色の髪は長くカールして、碧い瞳の輝きを彩っている。菫色の薄いヴェールを重ねたようなドレスから伸びる上品な白い腕と首、その喉を通ってこぼれるのは甘い美声。

 我ながら、お人形みたい。

 何のためにこんな姿をしていたのかしら。

 

 居間で緊急会議をしているであろう両親に聞こえないよう、小さく呼び鈴を鳴らす。

「はい、お嬢様」

 現れたのは執事・オルカだった。長身に切れ長の瞳、黒く整えた髪。絵に描いたように端麗な執事だ。しかし制服を着ていればの話で、今は伸びきった茶色の毛織物のローブだけを身に纏っている。完全に寝間着だ。多分今から寝ようとしていたのだろう。

 立ち居振る舞いは完璧な執事。仕事は一流、隙はない。それなのに、『まあいいか』と思う範囲が人より広すぎる。それがオルカだった。それでも彼ともう一人が、あまたの召使の中でたったふたりのエトワールのお気に入りだった。

 だって、オルカにはこれが頼めるから。


「今日のオウィニア競馬8レース分のレース結果を教えて頂戴」

「はい、こちらに」


 すっと差し出された紙片には、8レースの開催時刻・距離・全着順・レース勝ち馬のタイム・特記事項がずらりと記録されている。


「それと、お嬢様が外したかどうかだけをまとめた一覧です」

「全部外してるではありませんか畜生め!」

「お嬢様、大声で叫ぶと旦那様と奥様に聞こえます。あと7レースは私が勝手に少々ワイドのボックスを買い足しておきました。残念ながら人気馬三頭での決着でしたので、トリガミでしたが」


 人の金で頼まれていない馬券を買ったことをバラした上で、この執事は堂々と胸を張った。


「トリガミは負けよ?!」

「的中率を上げて気分を上げるのは必要かと」

「それは貴方だけよ…」

「いえ、婚約破棄をされてお気が落ち込まれていたところかと。何のかのと申し上げても、やはり的中は大事です。結果的に、私はこのワイドのボックスを買ったのは正解だと思っています」

「自己完結しないで頂戴。私のお金なのよ」


 そう文句を言ってから、エトワールははっと顔を上げた。


「……婚約破棄のこと、もう知っているの」

「ええ。この家の使用人は皆」

「それなのにあなた、寝間着着てこの態度だったの……」

「お嬢様が婚約を破棄されても眠くはなります。お嬢様だってそうでしょう」


 オルカは室内につかつかと歩み入り、紙片をエトワールのライティングデスクに丁寧に置いた。星明りがきらりと、卓上の銀のペンの上で光った。


「レース結果の復習と予想の反省はしっかり。そしたら、明日のオウィニア競馬は1レースくらい当たりますよ。だから今日は頭をすっきりさせるために、寝ましょう」

「オルカ…」

「私も寝たいので」

「……」

「大丈夫です、お嬢様。偉大なる競馬の祖はこうおっしゃっていました」

 物音一つ立てずに部屋から退出しながら、オルカはこう言った。


「明日のために、競馬はある、と」

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