第9話 夏草や兵どもが夢の跡

「チィッ!」


 思わず舌打ちをしてしまう。更に不幸なことに、そのゾンビは走行者タイプ。屋内ではもっとも遭遇したくない相手だった。こいつらを相手にするには普通のゾンビとはまた違った戦術を取る必要がある。

 距離は十メートル。このままでは数秒もしないうちに、ゾンビは私の喉笛を嚙み千切るだろう。しかし、クロスボウで迎撃しようにも、相手の動きはかなり素早い。万が一、頭を狙って外したら……無防備な瞬間を襲われることになる。つまり、まずは相手の機動力を潰さなくてはならない。

 私はクロスボウの照準を下にズラし、足に向かって引き金を引いた。シュンッと空を切る音と同時に、目の前のゾンビのちょうど膝の辺りに矢が刺さる。


『アァ――』


 瞬間、ゾンビは態勢を崩し、その場で転倒した。そりゃ、全力疾走中に足を撃たれたらこうなる。致命傷にはならなくても、人間の構造上、衝撃で必ずバランスを崩す。

 矢が刺さっている状態では再び起き上がるのに十数秒はかかるだろう。ジタバタと地面を這っているゾンビに近付き、脳天に包丁をお見舞いする。


『アッ――』


 断末魔のような声を上げ、死体は動かなくなった。膝に刺さった矢を回収して、一丁上がり。これが、走るゾンビ対策の戦術。一対一タイマンなら、歩行者も走行者も対処は容易だ。まあ、こんな手が通じるのは本当に周囲に他のゾンビがいない場合だけ。基本的に三体以上が現れたら、こっちも逃げるしかない。やっぱり、ゾンビの一番の武器は物量だ。いくら知恵と武器に頼っても、一人では対処できる数に限りがある。

 さて、長居は無用だ。先は長い。さっさと次の目的地に行かないと。くるりと振り返ると、また足元に……ゴキブリが一匹いた。

 まさか、こいつ……私を死体と勘違いしている? どうやら、既にゴキブリにとっては人間と死体に差はないらしい。どちらも巨大な歩く餌、ってことか。ちょっと……頭にくる。


 バンッ


 私は右足を持ち上げ、そのままゴキブリを踏み潰そうとする。しかし、その動きに危険を察知したのか、ゴキブリは一瞬でその場を走り抜け、棚の下に潜ってしまった。

 な、何か……ゴキブリに出し抜かれたようで……腹が立つ。こ、この野郎。次に会ったら覚えとけよ。生命力だけはしぶといやつめ。


「……って、それは人間も同じか」


 こんな世界になっても、少なくとも私はまだ生き残っている。ある意味、ゴキブリより生命力があるのが人類かもしれない。そんなことを思い浮かべながら、私は「スコップ」を後にした。


 *


 道中、何件かコンビニに立ち寄ったけど、結果はどこも同じ、棚は全て空だった。予想はしてたけど、最悪だ。やっぱり、行動するのが遅すぎた。このままだと、カレー作りどころの話じゃない。本当に、どうしよう。

 二件目の大型総合スーパーマーケット「ショウビー」に到着する。ここは三階建て、一階が外食店、二階が食品売り場、三階が日用品売り場になっている。さて、どこから攻めようか。一階の外食店は……正直、かなり小規模な店ということもあり、あまり入りたくない。こんなところで接敵したら、五メートル以内の近接戦をすることになる。なるべくリスクは避けたい。でも、そんなことを言っている場合じゃないってのも事実。


「……行くかぁ」


 意を決し、外食店内から先に捜索することにした。一応、窓から内部を確認する。ゾンビの姿は……ない。鍵も施錠されていないどころか、ガラスの一部が割れていた。引き戸を押すと……ドアに備え付けられている鈴がチリンと鳴り響いた。

 ここは個人経営の喫茶店だ。店名は……何だったかな。一度も入ったことないから、覚えてない。クロスボウを構えて、周囲を確認する。

 他の気配は……ない。中にゾンビがいるなら、さっきの鈴の音で反応しているはず。一応、安全ってことでいいのかな。ふと、テーブルの方に視線を送ると、メニューが置いてあった。これは有力な情報になると思い、手に取る。

 喫茶店ということは色々な料理を取り扱っているはず。つまり、カレーもメニューに入っている可能性は非常に高い。カレー、カレー……その文字列を私は必死に探す。


「……ない」


 どうやら、その喫茶店ではカレーは取り扱っていないようだ。いや、今時カレーも出してない喫茶店なんて、どうかしてるでしょ。なんてこと思いながら、メニューをテーブルに戻す。まあ、いいや。最初からあんまり期待はしていなかった。喫茶店にあるカレーは大体レトルト品だ。置いてあっても精々業務用の缶詰、それでは私の舌と胃袋は満たされない。それより、重要なのはスパイスだ。飲食店ということはある程度の調味料が揃っているはず。その中に、私が求めている材料があるかもしれない。

 カウンターに入り、まずは冷蔵庫内を確認する――空。

 次は戸棚――空。ちょっと待って。いくら何でも、何もなさすぎない? 普通、調味料ぐらいは残っててもいいのに。これじゃ、まるで手当たり次第に誰かが奪い去ったみたいな――


「……っ」

 ふと、喫茶店の正面扉を確認する。その瞬間、カチリと、歯車が噛み合う音が脳内で鳴り響いた。

「あー……そういうことね」


 やっと、理解した。ここまで店に物資が何も残ってない理由。私は……遅すぎたってことか。既に、ここは先客に荒らされた跡だ。あの割れたガラス、最初はゾンビの侵入跡かと思ったけど、よく見ると内鍵を開けるようにして傷つけられている。

 考えてみれば何らおかしいことじゃない。生物災害発生初期段階にて、私のように自宅で籠城を選択した人も大量にいたはずだ。でも、一般家庭の備蓄食料なんてものはたかが知れている。数週間も持てばいい方。なら、飢えに苦しんだ人々はどこに向かうか。そう……僅かな食料を求めて、商店や飲食店へと殺到したはず。その結果が、これ。


「…………はぁ」


 夏草や兵どもが夢の跡。いや、これはちょっと意味が違うか。

 そりゃそうだよね……もう、あれから三年も経ってるんだ。今更この店に来た私なんて、ほぼ最後尾ビリみたいなもの。何か残ってるかと期待する方がおかしい。そして、この状況は……どこも同じ。そんな状況で、カレーを一から作るなんて……無謀もいいところだ。

 急に、肩に地蔵が乗ったような重力を感じる。もう、帰ろうかな。幸い、まだ家を出て数時間しか経過していない。今ならまだ、最後に残された貴重な七二時間を多少犠牲にした程度で済む。カレーは作れないけど、他の保存食はまだ残ってるし、静かに余生を過ごせるはずだ。

 明らかに、恩恵メリット損失デメリットが割に合わない。私も、もう子どもじゃない。とっくに成人した大人だ。たかが好物のために、ここまで命を張ることもないか。


 徐々に、身体の中の熱が冷めていくような感覚を覚える。よし、帰ろう。これ以上は無駄骨だ。駅から少し離れた場所でさえこの有様ということは……繁華街に近付くにつれて、確率が低くなるってのは明らか。しかも、その分ゾンビの数も増える。どれだけ命があっても足りない。

 ようやく、自分の計画が荒唐無稽なものだったことに気付いた私はくるりと振り返り、出入り口へと向かう。気分は最悪。猫背の姿勢になり、目線は下に向いていた。でも、その時――偶然、テーブルの下に、何か小瓶が転がっているように見えた。


「………ん?」


 これは何だろうか。単純な好奇心から、その小瓶を拾い上げる。それは赤いラベルが貼られており、こう記載されていた。



『一味唐辛子』



「…………んんっ⁉」

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