屍が彷徨い歩く世界でも、最期に私はカレーが食べたい
海凪
第1話 こうして、世界は崩壊した。
かつて、アメリカでは死刑囚が死刑執行の直前に人生最期の食事を選べる「ラスト・ミール」という制度があった。ステーキやフライドチキン、ピザといった好物を注文する者や、オリーブ一つだけ食す者など、そのメニューは千差万別だったという記録が残されている。
ただ、中には注文自体を辞退する者、豪華な食事を前にして、一口二口しか手をつけなかった者もそれなりにいたらしい。まあ……これから殺されるっていうのに、呑気に食事なんてできるわけがないと言われたら、一理ある。数時間後には胃に収めた食物ごと火葬されて、骨しか残らないんだから、そりゃあ食欲だって失せるよね。
あなたなら、最後の食事に何を選ぶ? 日本人らしく寿司? それとも、豪華なステーキ? 母親が作った料理なんて洒落たことを言う人もいるだろう。この問いに正解はないし、実際に死刑宣告でもされない限りは何を食べたいかなんて大抵の人は分からないはず。
ちなみに、私はもう答えは決まっている。カレーだ。絶対、最後の晩餐はカレーが食べたい。理由? そんなの、ただの好物だからとしか言えない。
物心がついた時から、私の一番の好物はカレーだった。給食や夕食でカレーが出た日には目を輝かせていたし、家の食事当番を任されるようになってからは月に一回は必ずカレー週間を作るようになっていた。別に、料理自体はそこまで好きじゃなかったけど、カレーに関しては調理に苦を感じるどころか、至福の時間とさえ思っていたほどだ。
というわけで、もし、最後の食事が選べるなら、私は絶対にカレーを選ぶと思う。いや、それ以外考えられない。これからも、私はカレーをおばあちゃんになるまで食べ続けて、最後はカレーを食べて死ぬんだろう。
そう、三年前までは思っていた。
*
一九九✕年、世界は核の炎に包まれることも、恐怖の大王が降臨することもなく、ただ平穏に時は過ぎていった。でも、二〇二〇年春、その
「新型狂犬病」と呼ばれたその感染病は騒動初期のニュースでは人から人に伝染する狂犬病の一種だと報じられていた。海外で流行っている未知の病気、最初は誰もがそう認識していた。予想外だったのは――その感染病は風邪やインフルエンザよりも感染力が高く、ある特殊な経路によって、数か月で爆発的に全世界に広まってしまったことだろう。
ここまで言ったら、もう分かるか。そう、この世界で蔓延したのはただのウイルスじゃない。感染者は理性を失った〝ゾンビ〟になり、新たな感染者を増やそうと人を襲う。こうして、発症一〇〇%の接触感染によってネズミ算式に感染者が増えた結果、ウイルスが発見されて僅か数か月で……日本は、世界は生きた死者という矛盾を抱えた存在に支配された。
頭を潰さない限りは手足がもがれても動く不死身の兵隊。しかも、掠り傷でも付けられたらあいつらの仲間入り。こんなの、クソゲーもいいところだ。唯一の不幸中の幸いは感染するのはヒトだけってこと。これで、他の哺乳類や鳥類までゾンビ化したら……とっくに人類は滅んでいただろうな。
かつて、人類をもっとも絶滅に追い込んだ細菌といえば中世に流行した「
それは……黒死病はあまりにも致死率が高すぎたから、と言われている。
簡単な話だ。ウイルスは人から人に伝播して、感染する。でも、その媒体主が他人に感染させる前に命を落としたらどうなる? 経路はそこで絶たれることになって、感染者はそれ以上増えない。要するに、黒死病はあまりにも殺意に溢れていた。そのおかげで、徹底的に感染者の隔離を進めれば、そのうち物言わぬ死体だらけになって、流行は収まる。じゃあ、もしもこの死体が動き始めたらどうなるのか。その結果が、これだ。
世間だと、安直に〝Z-ウイルス〟って名称が付けられたこのウイルスがここまで爆発的に広まったのは――その独自の潜伏期間にあると私は睨んでいる。
Z-ウイルスの発症率、致死率は一〇〇%――感染者に噛まれたり、引っかかれたり、粘膜接触をしたら確実にゾンビになる。私の知る限りでは例外は一切ない。抗体なんてものは存在しない。明日の生活すら保障されていない貧乏人も、税金をたらふく納めている富裕層も、皆、平等に感染したら肉を求めるゾンビになる。でも……噛まれてすぐにゾンビになるわけじゃない。Z-ウイルスに感染し、発症するまでには死亡しない限りは七二時間の
じゃあ、ここで質問。もし、あなたがゾンビに噛まれるとする。隣には友人、家族、恋人がいる。その人たちに、自分が噛まれたことを申告できる?
チッチッチッ。はい、終了。多分、十人中八人か九人くらいは申告できるって自信満々に言うと思う。でも、現実はそうじゃなかった。
単刀直入に言うと、自ら死を選べる人間は極々少数派だったってこと。感染したことを隠して、避難所に人々が大量に押し寄せた結果が……あの阿鼻叫喚の地獄を世界中で作り上げた。
あー……あれは本当に、今でも思い出すと吐き気がするし、時々夢にも出てくる。人が人を食べる。叫び声と泣き声が木霊しながら、内臓の血生臭い香りが狭い室内に充満して……致命傷を負った死者が即座に蘇ってまた人を襲う。「増え鬼」って、小学生の頃にやらなかった? ほら、交代する鬼ごっこじゃなくて、タッチされた人も鬼になるやつ。閉鎖空間であれをやったらどうなるかって想像してもらえると分かりやすいかな。あぁ、我ながらこのたとえはナイスだ。人を喰う鬼と
まあとにかく、そうやって傷を隠した人が各避難所には絶対一人はいたそうだ。その結果、生き残りが密集していた場所は一瞬で屍の巣になりましたとさ。ちゃんちゃん――はぁ、今のはちょっと不謹慎だったかな。
でも、こうでもして茶化さないと語れない。本当に、なんでゾンビになるって分かってるのに、避難所に来たんだろ。自分は感染しないって謎の自信でもあった? それとも、死ぬのが怖かったから、誰かを巻き添えにしたかった?
――いや、このどちらでもないか。あの人たちはただ、怖かっただけだ。現実から目を逸らして、問題を先送りにした。だから、普通だったら絶対に選択しない愚行を犯してしまったんだろう。この
「……って、誰に向かって一丁前に考察を垂れ流してるんだか」
延々と心の中で独り言を唱える自分に対して、馬鹿らしくなった私、
時計を見ると、時刻は午後五時を指している。あぁ、もうあれから二時間も経ったのか。
「……さて、どうするかなぁ」
再び、足の甲に視線を移す。そこには――数時間前に付けられた痛々しい噛み跡が、タトゥーのように残っていた。
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