第7話 鬼上司はやはり雲の上の人
給湯室横を通り過ぎようとするとき中で声がして思わず足を止めたのは私の名前が出たからだ。
「あぁ、あの子ね……可愛いとは思うけど、派遣でしょ?派遣社員って信用できないんだよなぁ」
「え~でも胸でかいしさ、一回お相手願いたいな。うまく誘えばワンチャンないかな」
「ないだろ、職場でよくそんな面倒なことやりたがるな」
姿を見られたくなくてそっと陰に隠れた。給湯室を出ていく後ろ姿を確認すると知った人だ。
(――中村さん、そういう風に思ってたんだな)
製造部の中村さん。半年に一度仕事を引き受けるだけの関係だけど会うといつもお礼を言ってくれた。
優しそうが第一印象で少し気弱な雰囲気がむしろ可愛いくていいな、と思った。
好きと言っても好意的という意味だけど、好きになるならこんな人がいいなと思っていた。
(そもそも対象でもないじゃん、私なんか)
派遣でいると恋もできないのか。
中村さんも木ノ下さんと同じ、私じゃなく派遣社員のフィルターを外してくれない。
それなら胸がでかくていいなと思ってくれるもう一人の方がずっと誠実かもしれない。
(いや、全然誠実じゃないわ。なんだよワンチャンって)
自分の思いに自分で突っ込む。
フラスコにつけてたチューブを抜き替えてエンターキーを押した。
装置がくるくると回ってチューブが液を吸い上げていくのをぼんやりと見つめる。
規則的に動いて決められた通り測定を始める装置のように、一定のリズムで感情に振り回されずに仕事をし続けられたらいいのに。
どうやったらもっとうまく気持ちをコントロールできるのだろう。何年働いたら消化できるのか、いや多分もう気づいている。
年数じゃない、だってもう五年も働いてるのにこのしがらみは重くなるばかり。
頑張ろうと思う日もあって。
もう無理だと辛い日もあって。
それを繰り返して月日だけが経っていた。結局、自分で自分を振り回している。
(しんどい)
心の奥がもうずっとしんどい。
重い錘を腹の底に埋められたようにしんどさだけが募っていく。いろんな人の何気ない言葉や態度がその錘をますます重くさせた。
パンッ、とキーボードをたたく音にハッとした。
「測定終わってる」
骨ばった長い指がパソコンのキーボードから離れてその指先を見送ると久世さんがいた。
「どした?なんか体調悪い?」
「……いえ、ちょっと……ボーっとしてました、すみません」
「……なんか顔色悪いけど」
大丈夫?覗き込まれて腰を引いた。
「平気です」
イケメンに見られるのは慣れていない。しかもただのイケメンじゃない。
意識すると終わる、その思いだけで顔を背けた。
「これ、承認下りた」
渡されたのは先日言われて提出した改善提案書。
中を見ると私が書いたより明らかに長い文章、しかも細かく大げさに書き換えられているから突っ込まずにはいられない。
「あの、私が書いたものと明らかに変わってる気がします」
「今回は特別。それ見て書き方勉強するように」
「なんかとんでもなく大げさになってません?こんな大層に書くことじゃない気がするんですけど」
「書き方で査定評価変わるんだから同じもらうなら高い評価つけさせるの当然だろ。小遣い稼ぎだよ、がんばって」
がんばって、今の私には辛い言葉だ。
頑張りたい気持ちはある、応えたい気持ちもある。でも、やるせない。頭がついていかない。
この人の下でもっと仕事がしたいのに。
「……はい」
無視できなくてなんとか返事をした。返事とは裏腹に胸が苦しかった。
仕事を与えられて自分が久世さんにとって特別な何かになったみたいな気になっていた。
でも違う。
私はただの派遣社員でただの部下。
久世さんにとっては仕事をさばくただの駒にすぎない。それをもっとちゃんと自覚しないと今以上に辛くなる。
「菱田ちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げると、珍しい人が実験室に顔を出した。
「高宮さん。お疲れ様です」
品質管理部の高宮さんだ。
「お疲れ様。今日も可愛いね」
高宮さんも相変わらず軽いが不快感はないのは高宮さんの人柄だと思う。いつもこんな愛想を添えてくれるのもいい加減申し訳ないが言い返すのも変に意識しているみたいだからニコッと私も愛想でスルー。
「珍しいですね、どうしたんですか?」
「久世と待ち合わせなんだけど……いない?」
「え?」
さっきまでいたけれど出て行ったのか。相変わらず忙しい人だ。
「事務所かな。ちょっと待たせてもらいまーす」
そういって椅子を引っ張ってきて測定している私の隣に流れるように座った。
(慣れてらっしゃる……)
「久世の下で大変じゃない?あいつキツイでしょ、苛められてない?」
「苛められてませんよ?よくしてもらってます」
「嘘、あいつの評判なかなかエグイよ?」
「そうなんですか?ていうか、お二人は、その……」
会話の感じから親しそうに見える。
「同期。付き合いはそこそこかな」
(同期……)
高宮さんも久世さんに引けを取らないほどのイケメンである。おそらく社内で三本指に入るほどの名を馳せているお方だ。
社交的で優しくて気遣いのできる人、甘いマスクにふわっとした髪の毛が余計に優しい雰囲気を醸し出していた。さりげなく会話を挟んで相手の懐に入っていく感じがモテるんだろうなと感じた。軽くみせて案外一定の距離を詰めてこないからそういう風に演じているのかな、とも思う。久世さんと高宮さんが並ぶとなかなか迫力があるなと頭の中で想像してしまった。
「あいつが本社にいるときから仕事で絡みもあったんだけどね。まさか開発に飛ぶとはねぇ。どうせまた本社に戻りそうだけどな、あいつ」
「え?」
思わず声が出た。
「いや、すぐどうこうはないと思うけど。久世はそう思ってるんじゃない?あいつは品管で上に上がりたいと思ってたやつだし。開発の仕事は繋ぎみたいな気持ちじゃないのかなぁ」
いつか本社に戻る……高宮さんの言葉が頭の中でこだまする。
「あ、戻ってきた」
高宮さんの言葉に扉に顔を向けると久世さんが戻ってきた。
「悪い、部長に呼ばれてた」
「お前がいないおかげで菱田ちゃんと話してたし全然いい」
「仕事の邪魔すんなよ。これ、うちの管理表。てかなんで去年からできてないわけ?」
「それは前の課長さんに聞いてくれる?俺も去年は開発担当してないし知らねぇよ」
くだけたように話す二人は本当に気心が知れているんだと見ていて思った。だからきっと高宮さんの言った言葉はあながち嘘ではない気がした。
久世さんはいつかここを離れていく人。ずっと一緒にいれるわけがない。そんなことわかりきってたのに、いつからこんなに厚かましくなったのか。
仕事だけの関係でもいつか離れるのか。それなら先に離れてしまいたい。
離れて行かれる前に――私から離れたかった。
いなくなったこの場所でまたひとり頑張るのはもうできない気がした。
そう思う時点でもう手遅れじゃないか、自分に問い聞かせる。
(もう手遅れだよ――)
離れたくなかった、倉庫で二人になったときそう思った。
でも、近くにいるほど遠い人と気づかされる。
近づくほどに距離を感じていくだけでその現実がまたつらい。
だから思う。
この芽生えた気持ちに名前は付けずに心の奥の底にしまい込もう。
(もう開けないで……自分の胸の中で広がったら自分でそれを集めきれない)
すぐになんか忘れられない、ないものにできないならもう隠して閉じ込めるしかない。
そして一緒にこの仕事とも縁を切ろう、そう自分の気持ちを整理し始めていた。
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