クリムゾン

卯月里斗

第一章 赤髪の剣士

 人が立ち入らない、草木の生い茂る森の中、一人の少女が歩いている。

 少女といっても可憐な乙女といった可愛らしい印象ではない。深紅の髪はボブくらいの長さで、同じ色の瞳は鋭く凛とした印象を与える。一七〇センチもある身長は、女性にしては高い方で、鍛えられた肉体によってその体格は男らしさ、逞しさも感じられる。

 軽装で腰には片手剣を携帯しており、荷物はショルダーバッグひとつ。森に一人でいるというのに全くの恐れを抱かず、すたすたと道なき道を進む。

 森に入ってからというもの、道らしい道はなく、木の根が張った凸凹した地面を難なく歩き続けている。

 一昨日はこの森——レラ樹海でも上位種と言われているジャイアントを倒した。おそらく今までで一番の強敵だった。

 いやひょっとすると、あの先輩の方が強かっただろうか。

 それはともかく、普通は国の騎士団が討伐隊を結成して念入りに準備をしてやっと倒せるような魔物だ。

 彼女には一人でそれだけの戦闘力を持っていた。

 しかし、ジャイアントを倒した後はというと、悶々としながら森を彷徨っていた。

 ところが小川が見えてきて、草木で鬱蒼とした足場から解放される。そこからは川の流れに沿って歩いていくが、その先に何があるのかは当人も知らない。

 この森は以前住んでいた国の領土よりも広大であるが、その地理にはさほど詳しくない。南東部に大きな湖があることと、そこから流れる支流をいくつか知っている程度だ。あとは北部が海に、南部に山脈へと繋がっているということくらいか。

 この森の西に位置するラスティア王国を出て、ずっと東へと進み続けているがどこを見回しても同じ緑色の景色だ。

 この旅に明確な目的はない。旅に出るよう言った義父(ちち)には、何らかの思惑があるのだろうが。

 義母(はは)からもらった食料は、一週間以上が経った今すでに底をついている。だが、自生する植物や野生動物を狩れば腹を満たすことは容易だ。

 ところが、飲料水の確保は最も重要かつ難しい問題ではあった。

 しかし、あの小川を見つけられた今、その心配は無くなった。

 水質は問題なし。人の立ち入りがほとんどないこの森の資源は上質だ。

 これで飲み水は確保できた。しかし、寝床は未だ不安定な木の上だ。下で寝るのは魔物に襲われる危険があるため、大きな木に登って毎夜を明かしていたが、寝心地は最悪、日中も背中の痛みに襲われる始末で、若干寝不足気味に陥っている。

 打開策を見出さねば日中の行動に支障が出る。

 すると、森の方からがさがさと音が聞こえ、少女は警戒を強める。

 明らかに風が草木を揺らした音ではない。何かが潜んでいるようだ。

 その音は尚も続き、少女の方へと近づいてくる。

 少女は剣を鞘から抜き、音のする方をじっと睨みつける。姿が見えずとも気配が移動するのを察知する。

 いつ飛び出してきても仕留められるように、剣を構え様子をうかがう。

 間近に迫った気配が茂みから飛び出したその瞬間——。

「はっ!」

「え?」

 剣を振るうその瞬間、間の抜けた声に動きを止める。

 剣の切っ先はそれの首の寸前で止まっていた。

「ひっ……」

 くたびれた衣服を纏った少年は、恐怖のあまり剣先を凝視して固まっていた。

 少女の方は人と遭遇したことに驚いた。

「…………すまない」

 そう言うと剣を鞘に納める。

 少年は腰が抜けたのかその場で座り込んだまま唖然としている。

「こんな場所に人がいるとは思わなかった」

「そ、それは、こちらの、セリフです。…………君はこんな森の奥に一人で?」

 少年は動揺しながらもおずおずと尋ねた。

「ああ、そうだが?」

 少女は怪訝な表情を浮かべた。

 彼女から見れば、自分よりも弱そうなのに森に一人でいる少年の方が不思議だった。

「そういうお前はこんなところで何をしていたんだ。他の奴はいないのか」

「僕はもともと一人です。ここへは水を汲みに来たんですよ」

「水を、汲みに?」

 彼女でさえ数日掛けてここまで来た。王国の民とは考えにくい。

 しかし、この森に集落があるなんて聞いたことがない。

「僕はこの森で暮らしてるので、生活に必要な水はここへ汲みに来るんです」

 少女はますます訳がわからず困惑するも、少年は慣れた手つきで川の水を汲み始める。

 彼女よりも非力そうな体つきで、この危険な森の中どうやって暮らしているのか、全く想像がつかなかった。大きな魔物なんかに遭遇すれば、為す術なく喰われてしまいそうだった。

 満タンまで水を入れたバケツ二つを、天秤棒の両サイドに引っ掛ける。そして、ほんの一瞬、何らかの素振りを見せると、少年は軽々とバケツを持ち上げた。

「…………今、何をした」

「えっ、今のがわかったんですか」

 その所作は流れるような動きで、ほとんどの人は気付かないであろう。

「何をしたかまではわからない。だが、おそらくは魔法の類を使ったように見えた」

 少年は感嘆の声を漏らすと、種を明かす。

「……凄いですね、これは質量変化の魔法です」

 少女はそれを聞いて納得した。

 おそらくこの少年は、魔法を駆使しているから森で生活できていたのだ。そして、水の入ったバケツの質量は軽く変化させて運びやすくしている。

 魔法はこの世界において、戦いや生活において必要不可欠な力だ。火・水・風・土・光・闇の属性からなり、詠唱魔法か無詠唱魔法、攻撃系・補助系・回復系など分類は多岐にわたる。

 一部の人間は体内に魔力を宿しており、その力を使った仕事を生業としている者を“魔法士”と呼んでいる。魔法を使えない多くの人々は、魔力を宿した道具でその恩恵を受けている。

 少年が使っていた質量変化魔法は、無属性——どの属性も持たない、少々珍しい魔法だった。

 それにしても、なぜこんなところで生活しているのかが謎だった。この森は広大な上、魔物の棲む巣窟となっている。いくら都会を離れて田舎暮らしがしたくても、決してのどかな場所ではない。

 危険すぎる。一人でほっつき歩いている少女が言える立場ではないが。

 かと言ってあえて聞く理由もなかったため、少女はその場を立ち去ろうとする。

「あっ、待って下さい」

「? まだ何か」

「その……、旅でお疲れではありませんか? 良ければ家で休んで、行ったりは…………」

 歯切れが悪く、少女の顔色を窺う男。

「いや、その必要はない」

 しかし、少女は顔色一つ変えずキッパリと断る。

「まあそう言わないでください。人と話すのは久しぶりで、少し話相手になってもらえませんか?」

「いや……」

 今までの会話の中に彼女と話したくなるような要素があっただろうか。それに喋るのが得意でないことも明らかだったはず。

 それほど長い間人との関わりがなく寂しかったのだろう。

 少女は大した話は出来そうにないなと思ったが、そろそろ背中が痛む木の上での野宿は御免だった。何か良い寝具があれば見繕えるかもしれないと考え、その誘いを受けた。

「……わかった」

「ありがとう。僕はジェイルといいます、あなたは?」

「シーナだ」

「……シーナさん。こちらです、ついて来て下さい」

「シーナでいい。あと敬語も不要だ」

 ジェイルは頷くと、バケツを下げた天秤棒を担ぎ直し歩き出す。シーナも後に続き、再び草木生い茂る森の中へ入っていく。

 聞けば年齢はシーナの二つ上で、出身はこの森の東に位置するレードラント連邦だという。

 家までの道は獣道のようにそこだけ少し地面が見えていて、この森で過ごした時間の長さを感じさせられる。

 距離はさほど遠くなく数分で到着した。

 木々で狭まった視界が突然開き、日の光が差し込むその場所に一軒の小屋が現れる。いや、小屋にしては見た目が家のように立派で大きい。全て木で造られているようで、ウッドデッキまでついている。見るとテーブルに椅子が一脚置いてあり、生活の跡も確認できる。

「ここが僕の住む家だよ。どうぞ」

 ジェイルは扉を開け、シーナに中へ入るよう促す。

 シーナはジェイルを一瞥すると、躊躇わず中へと入る。

 一間にリビング・ダイニングが一体となっていて、まず中央にあるソファーやダイニングテーブルが目に入った。傍らに目を向けると、キッチンとなっているらしく、食器棚や調理器具、鍋が置いてあり、微かに何かスープのような匂いが漂っていた。

 部屋を見回したがドアがなく、他に部屋はないようだった。ただ、部屋の奥の壁際に階段が伸びており、どうやら二階もあるようだった。

「好きなところに座って。今、お茶を出すから」

 シーナは窓の方を向いたソファーに腰掛ける。

 窓の向こうを見やると、青い空と白い雲が広がるばかりの穏やかな景色。ひとまずは魔物を警戒する必要のない安全な場所。座り心地の悪くないソファー。

 慣れない環境に身を置いて、疲労は確実に溜まっていた。そのことを不意に自覚する。

 漆喰の壁や石畳の道、規則正しく並べられた美しい花壇のある王都から離れ、それほど時間は経っていない。しかし、遠い昔のように感じられた。

 そして、襲いかかる睡魔に抗う方法も気力もなく、そのまま眠りに落ちるのだった。


  *


 左手首が痛い。

 何か縄ようなものに縛られ、強く引っ張られて、度重なる摩擦で皮が剝け、赤い血が縄に付く。それでもなお摩擦で痛みが増幅する。

 虚ろな当時の記憶の中で覚えていたこと。

 これは過去の出来事で、夢の中だとわかっているが、あまりに鮮明すぎてその痛みも本当に感じられるようだった。

 物心ついた時から身寄りがなかった赤髪の彼女は、スラム街の一角でつまらなそうに生きていた。

 腹が減ればその辺にいる人間から食べ物を奪い、奪われようものなら容赦なく返り討ちにして奪取した。当てもなく探し回るよりは手っ取り早かったし、昔から力だけは他の誰よりも強かった。だから近づいただけで逃げ出す者もいて、簡単に食べ物が手に入ることもあった。

 そして、いつも独りだった。

 幼い少女には似つかわしくない圧倒的な力。それをスラム街の人々は恐れ、忌み嫌っていた。

 彼女はこれからもずっと独りでいるのだ、と。それが当たり前だ、と思っていた。

 ところがある日、荷車を引いた小太りな男が少女の前で立ち止まり、周囲に誰もいないのを確認すると、お前も供物として捧げてやる、と言って少女の腕を引っ張った。

「やめろ」

 掴まれていない方の手で男の腹に一撃喰らわせた。

 しかし、男は受け身を取りいなされたため、大したダメージを与えられなかった。

 男は少女を突き飛ばすと、倒れ込んだ少女に跨って体を押さえつけた。

 少女は必死に抵抗するも力が及ばず、身動きが取れなかった。

 明らかにその男は荒事に慣れた様子だった。

「ああぁぁぁっ! があああっ」

 少女は手が駄目ならと足で蹴り出そうとするが、うつ伏せの状態ではそれも難しく為す術はなかった。

「女のガキのくせに馬鹿力だな。おとなしく、しろ!」

「かはッ———………………」

 首筋にチクリと針か何かが刺さったような感覚がした後、体に力が入らなくなっていき抵抗できなくなる。そして次第に意識が朦朧とし、暗闇へと落ちていった。

 気がつくと揺れ動く何かに横になっていた。手首は縄で縛られ、乗っているそれに繋がれていた。

 頭上には大きく厚手の布が覆い被さっていて薄暗かったが、周りを見回してみると同じような状態の子どもが何人もいた。

 そして布との間から顔を出して見ると、前方では馬のようで牛のような生きものがこの荷車を引っ張っていて、男は手綱を握ったままうつらうつらとしていた。

 少女は頭を引っ込める。

「なあ、……なあって」

 男に気づかれないよう声を潜め、近くにいた男の子に声を掛けた。

「元いたところに帰りたいんだけど、どうやったら帰れる?」

「………………」

 少女の声に無反応なまま、ピクリとも動かない。

「かえりかた、おしえろ」

 今度は距離を詰め、少年の顔を覗き込むようにして聞いた。

「……さあ。無理だよ」

 細々と答えた少年は、目が虚ろで焦点が合っていなかった。

「っ……。こ、この縄を切る方法だけでも、さ」

 普通ではないその様子にたじろぐも、答えてくれることを期待し更に問い詰める。

 そして、少年は小さく溜息を吐くと。

「無理だよ」

 そう言って一言も喋らなくなった。

 他の子に聞こうとしたが、みな廃棄される人形のように力なく座ったり横になったりしていて、その上全く動かないのが余計に気味が悪かった。

 縄を切れるような刃物がないかと探してみたが見つからず、日も暮れ始め辺りの景色も見知らぬ田舎町へと変わっていた。

 後から知ったことはあの男は奴隷商人で、身寄りのない子どもを拾っては売って金を得ていることだ。そして男からの逃走が不可能な理由は、定期的に注射される薬のせいだった。

 その薬を打たれ続けた結果、子ども達は体に力が入らず抵抗できないのだ。

 しかし、彼女には不可解だった。

 連れ去られて一か月経過し、薬は何度も打たれているが体に異変はなく、力が入らなくなる感じも最初の時以来全くなかった。

 そのため、脱出する好機さえあれば逃げ出せるだろう、と思っていた。幸い男が小さなナイフを所持していることが確認できたため、それを奪うことができれば、あとは簡単な話だ。

 縄を切って逃げ出す。

 最初の時のようにはやられないと覚悟も決めていた。



「あの雲、食えないかなあ……」

「はは……。いいなぁ、いっぱい食べられるね」

 男の隙をつくには警戒されないようにしつつ、ここぞという時を待つ他なかった。だから暇を持て余す間は、例の少年と他愛無い話をするのが日常となっていた。

「腹いっぱい食ってみたいな」

「うん……そうだね」

「……必ず逃げよう。いや、逃げ出すんだ。それで、腹いっぱいになるまでの飯を一緒に食べよう」

 返事は返ってこなかった。肯定も否定もせず、好きにすればいいと言うように。

 一緒に行こうと約束してはくれなかった。他人事のように話を聞いては、自分自身は逃げる気がまるでないのがもどかしかった。

 それでも彼女は諦めるつもりはなかった。

 いつかその日を夢見て。



 好機は突然やってくる。

 男は荷車を外に置いたまま、見知らぬ人達と建物の中へ入っていく。

 これは明らかに今までになかった状況だった。

 そしてこの機を逃す手はなかった。

 少女は男達の気配がなくなった後、周りの様子を窺って誰もいないことを確認する。

 荷台から身を乗り出し、前方の座席を覗いてみると、男の荷物が置いてあるのが見えた。

 そのまま手を伸ばし、座席上部の屋根の縁を掴み、座席に右足を伸ばす。そして、右足と左手の縄で体を支えつつ、右手を男のカバンへと伸ばす。しかし、左手首に繋がれた縄のせいで、男のカバンにはあと一歩届かない。

 手首に縄が食い込むくらい荷車の前方へと体を引っ張る。

 手が駄目ならばとカバンの紐を足先で少しずつ引っ張り出し、下から掬うようにして足の甲に紐を掛けて引き寄せる。

 今度は足を座席に置いて、支えながらカバンを肩に掛けると、縄に体重を掛け一気に荷台の後ろへと戻ってくる。

「ほんとに逃げるの……?」

「ああ、もちろんだ。今を逃したら次がいつあるかわからない」

 いつもは無気力で無関心な他の子ども達も、少女の行動に目が離せなくなっていた。

 少女はカバンの中から縄を切れそうなものを物色する。

「……あった!」

 男がよく使っているサバイバルナイフ。

 これなら縄を切れる。

 まず自分に繋がれた縄を切る。

 次によく話していた男の子の縄を切ろうとする。

「ぼくは…………いいよ」

 無理だ、じゃない。

 逃げる、という選択肢がないわけじゃない。逃げない、という選択肢を選んだということだ。

「いいってなんだよ。今逃げなくていつ逃げるんだよ」

「ぼくは、ぼくも逃げるなんて。……言ってない」

「……は? なに言って——」

 まただ。またあの人形みたいな虚ろな目。

 最近はそんなことないって思ってたのに。

 ……思ってた?

 勝手に思ってただけ、か?

「ぼくは、ぼく達は、邪魔しないから。一人だけでも、行って」

「ふ、ふざけるな‼ なんで逃げないんだ!」

 急に突き放すような言い方をされ、心に痛みが走ったように感じる。

 それと同時に少年の言葉を拒絶し、感情のままに言葉をぶつけてしまう。

「っ…………。一緒に行くって、……言ってくれよ」

 少女は目の奥が熱くなるのを感じ、それをぐっと堪える。

 これは子どもの我儘だ。

 強い願望が思い通りには叶わないことによる悔しさ、それがどうしようもなく込み上げてくるのだ。

 彼女はその子とは仲良くなれた気がしていた。

 気がしていた、だけなのだろう。

 それが余計に悔しくて、今までのことは何だったのかと思うと、裏切られたような気にさせられるのだ。

 その目は俯いたままで、諦観の色に染まっていた。

「……ごめんね。きみは、きみのまま、真っ直ぐに生きてよ」

 二人の目が合い、少年は微かにだが微笑む。

「…………いやだ」

 沸々と湧き上がる衝動が、幼い理性では抑えられなくて溢れだす。

「いやだいやだ! お前も一緒じゃなきゃ駄目だ! それに、お前だってほんとは逃げたいんだろ‼ だったら————」

 少女は勢いよく少年に繋がれた縄を切ると、少年を抱き上げ荷台を覆う布を捲り上げる。

 すると———。

「おいっ! 何やってんだ!」

 先ほど少女が出した大声を聞き、男が外へと出てきたのだ。中にいる他の人達も遠巻きに顔を覗かせていた。

 少女は少年を一度降ろし、近づいてくる男に荷台から飛び蹴りを喰らわせる。

「ぐぉっ⁉ なにす———っ!」

 さらに男の腹部に拳が襲いかかる。

 まともに一撃を喰らい倒れ込む。

 そして、男は手首に繋いでいた縄が切られていることに気づく。

「お前っ! どうやってそれを‼」

 男は苦しみながら鬼のような形相で少女へと掴みかかろうとする。

 しかし、少女はひらりと躱し、手に持っていたナイフで男の腕を斬りつける。

「ぐあああああ‼」

 激しい痛みに襲われ、少女から自身の腕へ意識を向ける。

 その隙を突いて少年を抱え連れ出す。

「いやっ、離して……っ。僕なんか、置いてって」

 か弱くも少年は力を振り絞って抵抗する。

「動くなよ……っ。お前も一緒だって、言っただろ! …………それとも、一緒にいるのは嫌、か?」

 少女の声には不安が混じり、語尾が弱弱しくなる。

 その時、少年は彼女が少年とともにある未来を信じて疑いたくなかったのだと気付く。彼女はきっと、拒絶されたことにらしくもなく動揺して弱気になってしまっているのだ。

 少年はそれが嬉しくてたまらない気持ちになった。それと同時に、実現が叶わない現状が彼を諦めさせようとしてくる。

 でも、彼女と逃げ出してその先の未来を見たい、と思わせられる。

「嫌じゃ、ない」

「っ……! なら!」

「駄目だ。僕は置いていくんだ。君だけは、生きて」

 少年の夢は到底かなわないと分かっていた。だからこそ、せめて少女の足手まといにはなるまいと、冷静に正しい方へと導く。

 しかし、気づいてしまった気持ちに蓋はできず、涙となって少年の頬を伝う。

「っ……! そんな生きたそうな顔で言われても説得力ないぞ」

「そうだね。でも、お願いだから僕のことは置いて行って。それで、君だけでも……————っ! 後ろ‼」

 彼の精一杯の大声でその危険を知らせる。

「え? ———うぐっ!」

 少女が後ろを振り返った瞬間、背後から迫っていた男に突き飛ばされて二人は倒れ込む。

 態勢を立て直すよりも先に男がナイフを向け、今にも振り下ろさんとしていた。

 その一瞬で一気に体が冷え切ったように感じ、無理だと本能が告げる。

 間に合わない———。

「ぁぐっ……。うぅ…………。はぁ、はぁ」

 咄嗟に目を瞑ると、悲痛な声が少女の耳元に零れる。

 目を開けると、竦んで動けなかった少女の上に少年がのしかかっており、息を上げて苦しんでいた。

「お、おい……。どうし———っ⁉」

 起き上がらせようと背に手を回すと、生温かい何かで手が濡れはっとする。

 手を見ると、真っ赤な鮮血で染まっていた。

 その瞬間、何が起こったのか理解した。


「ああああああああああああああ」


 発狂するとともに勢いよく飛び起きる。

「はっ……っ、はぁ…………はぁっ」

 息遣いは荒く、手足の血の気が引いて冷たくなっている。

 大きく震える身体。異常な発汗。動悸。吐き気。

 息が詰まってうまく呼吸ができない———。

「ねえ大丈夫⁉」

「…………あ」

 パニック状態に陥っていたシーナに、ジェイルは声を掛ける。

 ハッと我に返った様子のシーナは、次第に落ち着きを取り戻していく。

 どうやらソファーに座った後、眠ってしまったらしく、横になっていた体の上に毛布まで掛けてくれたようだった。

 さっきより気分はマシになったが、夢に見た鮮明な過去の記憶は脳裏にこびりついたままだった。

「すぐに起こしてあげられなくてごめん。随分うなされてたけど、……悪い夢、見たの?」

 ジェイルはシーナの隣でしゃがみ、目線を低くして優しく語り掛ける。その姿はまるで夢にうなされた妹を安心させる兄のようで、その言葉はシーナの中にすっと入っていく。

「あぁ……。昔の、思い出したくない記憶をな」

「…………そっか」

 ただの相槌ではなく、共感した上で発せられた、これ以上は触れるべきではない、と会話を区切る一言。そして、窓の外を一瞥する。

「……シーナ、見せたいものがあるんだけど———」

 そう言われついて行くと、小屋の外、それも入口とは反対側の壁に立てかけられた長い梯子。そこを登っていくよう促され、言われるがまま小屋の屋根へと登ると……。

「っ…………!」

 見渡す限り空一面が夕日の色に染まっており、その景色を遮るものは一切ない。さっきまで鬱々としていた気分も、燃えるような赤に飲み込まれるようだった。

「僕が苦しいって思った時、この景色を見ると不思議と落ち着くんだ」

 シーナは感嘆の息を漏らすと、その光景に釘付けになっていた。

 木々が生い茂る森の中で空を見上げることはなかった。

 自然が生み出すグラデーションは美しく、心を落ち着かせてくれる。もちろん、過去の記憶も辛いという感情も消える訳ではない。

 ただ、今だけは落ち着きを保っていられた。

 ここへは現実から逃げてきたようなものかもしれない。なぜなら、あの場所に残るという選択肢もあったはずだからだ。

 そうしなかったのは、仲間だった彼らとあの過去から逃げてきたからなのだろう。

 そして、あの悪夢を見たのは必然と言えるのだろう。

 嫌悪感が募る一方で、このまま逃げ続ける選択肢が今なお頭の中をよぎっていることに嫌気が差す。

 じゃあ一体、あの時どうすればよかったのか。

 考えたところで正解には辿り着けていない。それどころか、今まで信じて進んできた道は間違っていたのかもしれない。かといって、正しい道を知っているわけでもない。

 何かに縋るようにして得た力も、何のためなのかさえわからなかったし、それはどうだってよかった。

 夕日を見て気が楽になったように感じたのも、ここには何のしがらみもないのだと、自分にはもう関係がなくなったのだと感じたからだ。

 でもあの夢で思い出したのは記憶だけじゃない。あの時の想いが、冷え切っていた心を再び熱くする。

 彼女が強くなりたいと願ったのは——。

 シーナは夕日が沈みゆく様を最後まで見守った。

「シーナ! 晩ご飯できたよ」

 声がした方に振り返ると、ジェイルがエプロン姿でシーナを呼んでいた。

「ああ」

 その時には既に夕日は沈み、月や星が姿を見せていた。

 ここにいつまでも長居はできない。次へと踏み出す時が来たのだ。

 ただ——。

「……もう、戻れないのか」

「えっ?」

 距離があったからか、あるいはあまりに小さかったからか、その言葉はすぐ消えてしまう。

「いや。何でもない」

 シーナは梯子を下り、ジェイルの後を追って小屋の中へ入る。



  

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