37 過去

 七瀬との日々が戻ってきた。彼は仕事から真っ直ぐ帰ってくると、合鍵を使って僕の部屋に入ってくるようになった。三月になり、僕は受けられる範囲の全ての公務員試験に応募した。地元の市役所は嫌だから、今住んでいる自治体のところにした。

 その日、僕はちょっと疲れていたので、スーパーで魚の短冊を買い、それを切って海鮮丼にした。これなら簡単だが満足感がある。七瀬はそれを食べ終えると、大きく伸びをした。


「葵、たまには片付け俺がやろうか?」

「じゃあ、今日はお願いしようかな」


 僕はベッドに寝転がり、七瀬が洗い物をする音を聞いていた。次第に身体が重くなってきた。額に手を当てると、熱があるようだった。僕は体温計を取り出した。バッチリ三十七度を超えていた。


「七瀬、僕、風邪ひいたみたいだ……」

「マジか。大丈夫か?」


 七瀬は僕の首筋に手を当てた。


「葵、どこか痛む?」

「身体が重いだけ。喉とかは痛くないな」

「とりあえず風邪薬飲んどくか?」


 もう七瀬は僕の部屋のことをよく知っていた。引き出しから風邪薬を取ってくれて、飲ませてくれた。僕は言った。


「うつるとまずいし、もう帰りなよ」

「彼氏がしんどいのに放っておけるかよ。今夜も泊まる」


 それでも同じベッドで寝るわけにはいかない。七瀬はローテーブルを動かし、ブランケットを敷いて床に寝転がった。


「何かあったら言えよ」

「うん」


 僕は夢を見た。トイレの個室で、僕は制服をはがされていた。モップで頭を殴られ、抵抗できなくされた。全裸にさせられ、写真を撮られた。


「うわあああああ!」


 自分の絶叫でようやく目が覚めた。上半身を起こした。信じられない量の汗をかいていた。七瀬が飛び起きて、僕の手を握った。


「どうした、葵!?」

「ご、ごめん……嫌な夢見た」


 あれは高校生のときの記憶だ。もう忘れていたと思っていたのに。僕は荒い息を吐いた。七瀬は僕を抱き締めた。


「大丈夫。大丈夫だから」


 トン、トン、と背中を叩かれると、次第に僕も落ち着きを取り戻した。僕は夢の内容……正確には記憶のことを七瀬に話した。彼は口を真一文字に結んでいた。


「今でも奴らのスマホには僕の画像が残ってるかもしれない。でも、どうすることもできない」

「……葵。そんなことされてたなんて」


 大学は、奴らがいないところに進学することにした。それで実家を離れて今のところにしたのだ。今は友達も恋人もいる。充実している。それなのに、過去は僕を捉えて離さない。僕はガタガタと震え出した。


「葵、熱上がってるんじゃないか?」


 体温計ではかると、三十九度もあった。


「明日、俺仕事休むわ。一緒に病院行こう」

「でも、迷惑かけるわけには……」

「そんな身体で一人にできないよ。俺は大丈夫だから。なっ?」


 しんどいのに、眠れなかった。次から次へと高校時代の記憶が襲ってきた。僕へのいじめは、教師も把握していたのだと思う。けれど、誰も助けてくれなかった。僕は声をあげることすらする気がなかった。三年間じっと耐え忍んだ。


「……僕、タバコ吸いたい」

「おいおい」


 よろりと立ち上がり、ベランダに出た。七瀬は何も言わずに僕のタバコに火をつけてくれた。熱がある中での喫煙はひどく不味かった。僕が眠っている間に、七瀬はスポーツドリンクを買ってきてくれていたようで、部屋に戻ってからそれを飲んだ。


「七瀬。僕、消えたい。タバコの煙みたいに、すうっと」


 それは、高校時代に何度も思ったことだった。せめて自分を傷つけないように、机にカッターナイフを当てた。僕にできる精一杯の抵抗だったと思う。


「葵。今はもういじめる奴はいない。だからしっかりしろ」

「誰からの記憶からも消えてなくなりたい。七瀬の記憶からも」

「そんなの俺は嫌だ」


 七瀬は僕にキスをした。僕は抗わなかった。


「生きててくれよ。折角こうして出会えたのに」

「うん……そうだね……」


 意識が遠のいてきた。七瀬が僕の額をさするのがわかった。そのまま僕は眠りに落ち、近所の内科が開いてから七瀬と行った。インフルエンザだった。看護師さんが七瀬に言った。


「同居のご家族の方ですか?」

「まあ、そんなもんです。俺は職場でワクチン打ってるんで、大丈夫だと思います」

「でも、感染予防には気をつけて下さいね」


 思っていたより大変なことになってしまった。公務員試験の勉強も遅れてしまうだろう。僕は大人しくベッドに入った。


「葵、食いたいもん無いか?」

「食欲ない。ゼリーとかなら食べれるかも」

「買ってくる。待ってろ」


 七瀬が買ってきたゼリーを、僕は一口ずつ食べさせてもらった。喉の痛みも出始めて、飲み込むのに時間がかかった。薬を飲むと、眠ることができた。七瀬はその日一日、僕の側に居てくれたようだった。翌朝、七瀬が僕を起こして言った。


「今日はさすがに出勤する。けど、すぐに帰ってくるから」

「うん……」


 一人になった部屋で、僕は天井を見上げた。身体のしんどさもそうだが、過去を思い出してしまったことの辛さでどうにかなりそうだった。

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