33 信頼
古枝さんは僕にヒントをくれた。それを無駄にするわけにはいかない。僕は七瀬の位置情報を見て、自宅に居るのを確認した後、マリ子さんの店に向かった。
「あらやだ、今日も一人じゃない。葵ちゃん、どうしたの?」
「七瀬とは、距離を置こうと言われまして」
僕はビールを注文した。他にお客さんはいなかった。マリ子さんは手を組んで、僕の話を聞いてくれた。
「僕が悪いんです。僕が重かったんです。仕事の話まで踏み込もうとしたから」
「あらそう。七瀬が何の仕事してるのか知らないけど、使命感ありそうだものね、あの子。仕事に関しちゃプライド高いのよきっと」
マリ子さんの言う通りだと思った。大きな使命感が無ければ、徴収なんていうキツい仕事をやっていけないだろう。僕もそこを目指しているというのに、浅はかだった。
「前にも話しましたよね? 僕は女の子もいけるって」
「ええ。聞いたわ」
「それってセックスだけの話なんです。女性を本気で好きになったことはありません。僕が好きになったのは、後にも先にも、七瀬だけなんです」
ふうっ、と息をつき、マリ子さんは電子タバコを取り出した。
「七瀬の今までの相手。ほとんどが七瀬が振られる側だったのよ。だから、あの子が距離を置こうだなんていう提案をしたのは意外だわ」
「そうなんですか」
「きっと七瀬もこわいのよ。葵ちゃんを手放すのが。だから、そんな中途半端なことしてる」
実際、生殺し状態だ。別れてないけど会えない。声も聞けない。位置情報を見て、存在を感じるだけだ。隣に住んでいるからこそ、余計に歯がゆい。
「ねえ、マリ子さん。七瀬が僕を捨てることってあり得ると思いますか?」
「どうかしらね。ゲイでもよくあるのよ。距離を置くカップル。残念だけど、大体別れてるわね」
ビールを飲み終わり、次はハイボールを頼もうかと思ったとき、お客さんが現れた。
「いらっしゃい。あら、昇じゃない」
「どうも、マリ子さん。あっ、君は……」
「昇。帰ったら許さないわよ。葵ちゃんの隣に座りなさいね?」
心底居心地が悪そうな表情で、昇さんは座った。そりゃあそうだろう。僕から七瀬を寝取ったのだから。僕は憮然としてタバコを吸った。
「葵くん。七瀬のこと、その……知ってるんだよな?」
「許す気はないけど話す気はあります。言いたいことがあるなら言って下さい」
僕がジロリと昇さんを見ると、彼はすくんでいた。僕よりもずっと年上の男がだ。
「あの一夜だけだよ。本当に。おれも酔ってた。勢いだったんだ。もうラインもブロックされたし、あれ以来会ってないよ」
「ラインなら僕がブロックしました。スマホもたまに監視してました」
「そ、そっか」
昇さんは焼酎を頼んだ。マリ子さんは言った。
「あんたのことが原因じゃないんだけど、七瀬が葵ちゃんと距離を置きたいって言ったみたいなのよ。何かためになること言ってやりなさいな」
「ええ、七瀬が? あいつがそんなこと……」
七瀬さんの今回の行動は、昇さんにとっても予想外のようだった。僕は尋ねた。
「昇さんと付き合っていた頃の七瀬って、どんな感じだったんですか?」
「秘密が多い奴だったな。職業も教えてもらえなかった。まあ、もう一人相手がいるのはおれも薄々わかってたし、連絡がつかないときがあっても我慢してたよ」
「もう一人の人とここでケンカしたんですよね?」
「ああ。おれがいきなり呼び出されてさ……」
もう一人の彼は、七瀬にどちらが本命なのか問いただしたらしい。それに答えなかったので、彼は七瀬に殴りかかり、昇さんが止めようとしたらさらに殴られたと。マリ子さんが三人をつまみ出し、エレベーターの所で長い話し合いをして、両方ともと別れることになったとのこと。
「おれも七瀬の秘密主義なところに焦れててな。別れようと思ってたからいいタイミングだった、なんて言っちゃって。まあ、後悔はしてるよ」
七瀬は僕には隠し事をしていないように感じていた。例の女の子のことだって、別に言わないでおくこともできただろう。彼はそれをしなかった。正直に教えてくれた。僕はようやく、それが信頼の証だったのだと気付いた。
「七瀬は……僕には言ってくれてます。仕事のことも」
「そうか。葵くんは七瀬にとって特別な存在なんだな」
「距離を置く、っていつまでだと思います?」
「七瀬のことだ。そんなに長くはないだろうよ」
そう願いたい。僕はハイボールを飲み干して、席を立った。
「葵ちゃん。いつまでかかるかわからないけど、七瀬のこと、待ってあげて。あの子にも時間が必要なのよ」
「はい、そうします」
帰りの電車に揺られながら、僕は時間について考えた。七瀬に会えなくなってから、夜が長い。彼は今、何を思っているのだろうか。彼にはどのくらいの時間が必要なのだろうか。ただ待つだけじゃ身がもたない。僕は古枝さんの言葉を思い返していた。
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