とも動物病院の日常~日々是好日~

岡田旬

第1話 その男凶暴につき

<初めに>

本作は既出の拙作“とも動物病院の日常と加納円の非日常”

https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938/episodes/16817330648319310502

と時系列が同じになります。

とも動物病院の成り立ちと登場人物につきましては、できますれば“とも動物病院の日常と加納円の非日常”を先に読んで頂ければ幸いです。

なお他の拙作“垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達〜”

https://kakuyomu.jp/my/works/16817330653569306112/episodes/16817330653569317049

は、青年獣医師加納円の高校時代の物語となっています。

なお、“とも動物病院の日常と加納円の非日常”と“垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達〜”はSFですが、本作にSF的な要素はありません。

 拙作をお楽しみ頂ければ深甚の喜びです。


*************************************


 「井伊さんから往診の依頼でーす」

僕は受話器を置くとスケジュール表に“No.2469富士見町二丁目井伊さん狂犬病予防注射:秋田犬”と書き込んだ。

「そんな季節になったんだねぇ」

広げた新聞の向こうからともさんのつぶやきが聞こえる。

どんな表情をしているかまでは分からない。

けれどもハイスペックな割に鷹揚なともさんには珍しく口調に緊張が感じられた。

「狂犬病の予防注射の往診依頼です。

今日の午後は手術の予定がありませんから、一時過ぎに伺いますって言っちゃいました。

帰りにロイジーナに寄りましょうよ。

マスターの新作を試しましょう」

井伊さんちの秋田犬、アカがいかなる犬なのか。

僕はその時何の前知識もなかったのだ。


 「準備はいいか、パイ?」

目の前で板塀がグワングワン揺れている。

今にもこちら側に倒れてきそうだ。

まるで怪獣のような咆哮が僕の耳朶を震わせ肝っ玉をザリザリと削っていく。

「とも先生!

早く、早くして下さーい!

もう、もう、駄目ですー!」

女の人の絶叫と言葉になっていない男の人の唸り声が聞こえる。

力を振り絞り顔を真っ赤にしているのが想像できる音声だ。

「今だ行け。

骨は拾ってやる」

「ラジャー」

大揺れに揺れる板塀には二十センチ四方位の穴が開いている。

今ちょうどその穴に赤茶色で毛足の長い絨毯みたいなものが押し付けれたのだ。

犬の太腿だった。

大きな犬の太腿が板塀の向こう側から力づくで押し付けられているのだ。

犬は力の限り抵抗し今にも塀が倒れそうになっている。

女の人の悲鳴と男の人のうなり声は力を振り絞って犬を穴に押し付ける状況が生んだものだ。

僕は電光石火の早業で穴から見えている犬の太腿に狂犬病ワクチンの筋肉注射を敢行した。


 「井伊さんの家にはなぁ。

でかい秋田犬がいる。

名をアカと言う。

柳田国男論ずるところの零落した神、祟り神をほうふつとさせる荒ぶる物の怪だ。

・・・見りゃ分かる。

パイよ。

これも経験だ。

アカに狂犬病の予防注射をするというミッションを授けよう」

ともさんが少し頬を引きつらせながらのたまう。

「嫌ですよ僕。

スカンクのまりちゃんっていう悪しき前例がありますからね。

(とも動物病院の日常・マリちゃんの残り香 https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938

大きな秋田犬に近接戦闘を仕掛けるだなんて。

ともさんは、僕に死んで来いって仰るんですか?」

まりちゃんの投射する生物化学兵器により大きなダメージを負った状況は、まだ僕の記憶に新しかった。

「あの前線に投入された際に負った僕の心の傷はまだ癒えていません。

PTSDを患ったのかもしれません。

今度は一つ間違えれば嚙み殺されるかも。

どうかご勘弁を」

僕は必死に命乞いをした。

「なに。

アカと直接対峙しろなんて言わないよ。

毎年のお約束でさ。

注射のための状況設定は整ってるさ。

今まで犠牲者が出たことは無い」

それでも僕はともさんの目が泳いだのを見逃しはしなかった。

「何事も経験だ。

狂犬病の注射には一撃離脱の早業が求められることもあるからね。

この経験は獣医師としてパイの糧になる」


 すまじきものは宮仕え。

院長の意向に逆らえる代診はいない。

白衣は脱いでフットワーク重視の軽装でミッションに臨むことになった。

「井伊さんご夫妻がアカを押さえて下さる。

あの板塀の穴を見ろ。

ほんの一瞬だがあの穴にアカの大腿が押し付けられる。

その一瞬でピンポイントの一撃だ。

Hit-and-run tacticsだ。

注射器をこうやって持ちプランジャーは掌で押し込むんだ。

二度目は無い。

今日失敗したらほとぼりの冷めた頃に再出撃ってことになる。

その時はアカの記憶も鮮明だろうからな。

今日以上の迎撃態勢を取ってくるだろう。

アカには情けも容赦もない。

締めていけ。

・・・ここ二年ほどで板塀にかなりがたがきてる。

万が一の時はダッシュで逃げろ。

井伊さんご夫妻がパイが逃げ切るくらいは時間をかせいでくれる・・・と思う」

ともさんは通常の診療では使わないロックタイプのシリンジに狂犬病のワクチン液を吸い上げる。

一撃離脱の注射法を再度説明しながらシリンジを僕に手渡す。

「井伊さん!

こちらは準備できました。

お願いします」

返事は無い。

アカに悟られる時をなるべく先に延ばすためだろう。

待機時間が思いのほか長い。

突然、怪獣の咆哮があたりの空気を震わせた。


 板塀は壊れず確かな手ごたえと共に注射は成功した。

「お支払いと証明書は後ほど!」

ともさんは一言板塀の向こうに叫ぶ。

「撤退だ!

急げ!」

僕たちは大急ぎで車に戻り修羅場を後にした。

怪獣の怒り狂った怒号と板塀に体当たりする轟音が辺りを制し、井伊夫妻の悲鳴がそれに重なった。

急発進する往診車の窓から飛び込む修羅場の阿鼻叫喚が遠ざかり『生きてるって素晴らしい!』と、心の底から思った。


 「あれって本当にただの秋田犬なんですか?」

「血統書付きの由緒正しい秋田犬だ。

嘘か実か渋谷のハチ公の遠縁に当たるらしい」

ともさんの顔がまだ少し強張っている。

「いつもあんな調子なんですか?」

「年を追うごとに酷くなる。

最初の年は対面で皮下注射ができたんだけどな。

三年目だったか。

あの時は危なかった」

ハンドルを握る手に力が入り、ともさんが遠い目をする。

「信号青になりましたよ」

「おお、すまん。

四年目からはああやって板塀の穴に身体を押し付けてもらって一撃離脱法に切り替えた」

「いつもあんなんじゃ井伊さんも大変ですね」

「アカは普段はおとなしい家庭犬らしいがな。

ハイド化するのは獣医師限定ってことだ。

大きな犬だし集合注射は最初の年で諦めたと井伊さんは仰ってた。

・・・会場で嘱託の獣医が噛まれたらしい」

「・・・まりちゃんといいアカといい。

ともさんがいたいけな代診に特攻を命じる人でなしの上官であることはよーっく分かりました」

ともさんは僕の怒りを知ってにわかに表情を取り戻すとニヤリと口をゆがめる。

「まあ、そう怒るな。

言ったろ。

それもこれも経験の内。

加納少尉は二度も困難なミッションを完遂して生還したじゃないか。

三度目があれば更に生還の確率が上がるのは確かだぜ」

「・・・三度目。

あるんですか」

「死して護国の鬼となるって言うじゃないか。

加納少尉。

覚悟を決めておけ」

「生きて亡国の鬼畜なるって選択は無しですか」

「パイよ。

面白いこと言うねー」

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