こよなき悲しみ 第五話 忌まわしきもの

かねむ

 瞼が、まるで釣り鐘がぶら下がっているかのように重たい。聖都を東方に望む都市グレージェンの診療所で、医師ルッカは一日の診察を終え、食事を済ませて床に入ろうとしていた。夢うつつになりながら、階下の診察室に仕事道具を置き忘れていることを思い出す。手術用の小刀や鉗子は、どれも腕利きの鍛冶師に大金を払って造らせた逸品だ。そのままにしておけば盗人に持ち去られ、薄汚い酒場でチーズを切るのに使われるかもしれない。そんなことは真っ平御免だった。睡魔を振り払い、寝台から這い出して下の階に向かう。幸い、戸締まりは忘れていなかったようで、道具一式は診察台の上に置かれたままだった。道具を鞄に戻し、それを手に再び二階に上がろうとしたところで、誰かが診療所の扉を叩いた。

「ルッカ先生! どうか開けてください! ルッカ先生!」

 扉の向こうから、切羽詰まった様子の男の声が聞こえてくる。

 グレージェンで、こんな夜中に医者の助けが必要な輩といったら、大抵は刃傷沙汰を起こした飲んだくれか、後ろ暗いことをして傷を負ったごろつきで、関われば面倒なことになる。なにより、丸一日働いたあとなのだ。これ以上患者を診る気にはなれなかった。

「今日はもう終いだ。明日の朝にでも出直してくれ」

 ぶっきらぼうにそう告げるが、訪問者は立ち去るどころか、扉を破らん勢いで叩き続ける。

「そこをなんとか! 修道院で大変なことが起きているんです!」

 修道院か——それならば話は別だ。

 どこぞの国の王侯貴族などとは違い、セレス教会は信徒でないルッカに対しても寛容で、そもそもこの街で商売を始められたのも、腕の良い医師を街に駐在させたがった彼らの援助があったからだった。ここで彼らを追い返すのは賢明ではない。ルッカは瞼をこすり、頭を振って眠気を飛ばしてから、扉を開けた。無言でそうしたので、扉を叩く修道僧に危うく頭を打たれそうになる。

「あぁ、先生! よかった……」

 戸口に立つ老いた修道僧の顔に覚えがあった。確か名をピーターといって、修道院で二番目の地位に居たはずだ。

「こんな夜更けにわざわざ訪ねてくるとは、余程の緊急事態なんだろうな?」

「そうでなければ、わざわざお休みの邪魔は致しません……どうか、どうかお力添えを……」

 ここまで走ってきたのか、老僧は汗だくだった。

「あんた方の頼みは断れないな。案内してくれ」

 鞄を手に、ルッカはピーターに続いて小走りで修道院に向かった。


 修道院に近付くと、悲鳴にも似た呻きが聞こえてくる。

「この声が……患者はどんな状態なんだ?」

 ルッカが訊ねるが、ピーターは怯えた表情のまま、「見たほうが早いでしょう」と答えるだけだった。

 これで、男色の果てに肛門が裂けた僧の治療なんてさせたら承知しないぞ——。

 再び睡魔が忍び寄るのを感じながら、ルッカは鼻を鳴らした。開け放たれた門を抜け、広間に足を踏み入れると、修道院長に迎えられる。

「ルッカ先生。よくぞおいで下さった」

「挨拶は不要です。患者はどこに?」

 ルッカが挨拶を遮って訊ねると、修道院長は無言で広間を横切り、地下室へと繋がる扉を押し開けた。

「……こちらです」

「地下室?」

「……先生、ここで見たものがどれだけ異様でも、他言無用でお願いしたいのですが」

「一体、なにがそんなに異様なんだ」

「……見ていただければ、すぐにわかります」

 視線から逃れるように顔を背けながら、修道院長は地下室に入るよう促した。

 

 地下室に足を踏み入れると、修道僧たちが寄り添って祈り合い、患者を取り囲んでいるのが見える。

「どいてくれ。患者を診察したい」

 そう言って修道僧たちを押し退け、初めて患者の姿を見た。苦痛に顔を歪める若い修道僧が、腰布だけを身に付けた姿で長机に寝かされている。暴れるのを抑えるためか、その手足は革帯で机に縛り付けられていた。それだけなら、よくある光景だ。先の大戦で野戦病院に駆り出されたときには、暴れる負傷兵を大勢縛ったし、今でも熱病が頭にまわった者や、気狂いなどの診察をするときには、自身と周囲の安全の為に同じことをする。

 異様なのは、その腹部だ——臨月を迎えた妊婦のように膨れ上がり、張り裂けんばかりに突っ張った肌はどす黒く変色している。こんな症例は、どんな医学書にも載っていない。

 ルッカの眠気は、瞬く間に消し飛んでいた。すぐに鞄から布切れを引っ張り出し、顔を覆う。

「全員、外へ! これは伝染病の一種かもしれん!」

 語気強くそう告げるが、修道僧たちは立ち去ろうとしない。跪き、苦しむ同志のために祈り続けている。修道院長が口を開いた。

「ルッカ先生。我々は創造主様の下では家族なのです。どうか、苦しむ兄弟の為に祈ることをお許しください……創造主様もそれを望まれるはずです」

 これだから宗教家は苦手なんだと、ルッカは内心で舌打ちした。盲目的に信仰を重んじるあまり、一般常識や理性を軽視する者が多過ぎる。

「……せめて口を布で覆ってくれ。これがもし感染うつるものなら、あんた方だけの問題ではなくなるんだからな」

 苛立ちを抑えてそう指示を出すと、修道院長は頷き、その場に留まった全員に口元を覆わせた。

「結構。それでは、早速拝見しようかね……」

 最低限の感染対策が為されたのを確認し、ルッカは患者にゆっくりと近付く。

 まずは目視。『触る前に己の目で確かめろ』——医学校で耳にタコができるほど教わった、医術の基本だ。

 近くで見ると、患者の腹がゆっくりと、微かに、そして規則的に脈動しているのが分かった。

 縛られた患者の手首を掴む——かなりの痛みを感じているせいで、患者の脈は早い。腹で起きている脈動と、患者自身の脈拍は別物だ。

 それが意味することはひとつ——この腹の中には、なにか生きたものがいるのだ。

 あり得ない。しかし目の前の腹——その下にあるであろう、在るはずのない胎は、困惑するルッカを嘲笑うように、先程よりも強く脈打っている。

 突然、患者が悲鳴を上げた。白目を剥き、口から泡を吹きはじめる。腹の中のなにかが動いたのか、張り切った肌のあちこちが隆起していた。

 患者こいつはこれ以上もたない。長年の勘が告げていた。

「……腹の中のモノを取り出す。誰か、患者の両肩を押さえていてくれ。強くだ」

 修道僧たちに指示を出し、ルッカは自分のベルトを取って患者に噛ませ、手術用の小刀を握った。

「患者の名は?」ルッカが訊ねると、誰かが「アーロンです」と答える。

「いいかアーロン。地獄のように痛むぞ……覚悟を決めて、死ぬ気でそのベルトを噛め」

 患者の耳元で囁いた。鞄の中には痛みを和らげる芥子けしの汁がひと瓶入っているが、与えたところで効きはじめる前に死んでしまうだろう。耐えてもらうしかない。

 ルッカは躊躇いなく、患者の腹に刃を入れた。患者が絶叫し、暴れ出す。長机が激しく揺れ、ひっくり返りそうになった。

「しっかり押さえろ! 患者が死ぬぞ!」

 患者の叫びに負けない大声で指示をし、さらに切り進めようとしたところで、手元の切り口が突然、爆ぜた。

 皮膚が破れ、血肉が部屋じゅうに飛び散る。修道僧たちは情けない声をあげて飛び退き、顔中に血を浴びたルッカも、思わず尻餅をついた。一瞬のうちに魂の抜け殻と化したアーロン——その腹にぽっかりとあいた口から、何かがのぞいている。

 それは、まるで馬のような大きな歯と、鼻梁だった。千切れた皮膚片をくちゃくちゃと噛みながら、はゆっくりと顔を出し、傷口から這い出して、湿った音を立てて床に落ちる。

 その姿は、怪物と形容するほかなかないものだった。突き出た鼻梁と、貌の真横についた大きな目、右のこめかみ辺りから伸びた長い耳らしいもののせいで、一見すると馬のようだが、その貌の左半分は人間の面影があるように見える。たてがみのような長い髪の色は、患者のそれと同じ金色だ。手は蹄のようにも、人の手のようにも見えて、左側だけが異様に大きい。細い脚は馬のように筋肉質だが、これも左側だけで、右脚は貧弱な人間の脚だ。歪な体躯の色は灰色だった。馬と人間を混ぜ合わせたかのような忌まわしい獣は、部屋を見渡し、震えながら、ゆっくりと立ち上がろうとしている——そのあまりの醜悪さに、部屋に居合わせた全員が言葉を失った。

 誰ひとりもの言わないなか、獣がいななく。その甲高い鳴き声になにやら言葉が混じっているのに気付き、ルッカが口を開きかけたところで、誰かが声をあげた。

「……これは悪魔の子だ! 創造主よ、守り給え!」

 それまで恐怖で凍りついていた者たちも、釣られて口々に叫びだす。

「創造主よ、守り給え!」

「忌まわしきものよ、去れ! 去れ!」

 修道僧たちの怒号が部屋じゅうに響く。獣がまた嘶き、いきなり床を蹴って、出口に向かって駆け出した。修道院長がそれを阻もうと立ち塞がったが、獣は跳び上がって修道院長の頭を踏み、思い切り蹴って、外へ続く階段を駆け上がる。首の折れる、いやな音がした。獣の足音——飛び跳ねるような蹄の音が遠ざかり、すぐに外からはなにも聞こえてこなくなった。

 怪物が去ったあとの地下室は、まさに地獄絵図だった。飛び散った血と臓物が、灰色の石壁を赤黒く染めている。アーロンの骸に近づき、怪物が破って出てきた穴を覗き込むと、臓腑は齧られ、内側から押し破られた肋骨は、すべて外に向けて反り出している。を目の当たりにした修道僧たちはその場で泣き崩れ、何人かは恐怖のあまり、固まったまま僧衣を濡らしていた。

 

「お悔やみ申し上げる」

 弔意を述べて診察料を受け取り、家路につこうとするルッカは、門のところでピーターに呼び止められた。

「先生……今夜のことはくれぐれもご内密に」

 修道僧から化け物が飛び出してきたなど、信者に知られるわけにはいかないのだろう。囁きながら、ピーターはルッカの懐に、診察料の倍近い額を滑り込ませた。

 保身に走るとはご立派なことだ——そう皮肉が出かかるのをなんとか堪え、口止め料を受け取る。

「心配するな。話したところで、どうせ誰も信じるまい」

 そう言い残し、ルッカはその足でまっすぐ酒場に向かうと、一番強い酒をひと瓶注文した。そして、酒が脳裏に焼き付いた壮絶な光景を濁らせるまで、しこたま飲んだ。

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