エピローグ

 鼻歌交じりに狭い書庫を飛び回るライラックを見ないようにしながら、リジーナは開け放った窓の向こうに広がる庭園を見渡した。優雅に咲き誇っていた薔薇もいくつか枯れているらしく、庭師は忙しなく鋏を動かしていた。

 ぴう、と冷たい風が吹き込んでくる。厚手の上着を羽織ってはいるが、それでもこの寒さは身に沁みる。リジーナは窓を閉め、広げていた本に目を落とした。

「ねえ、あまり飛び回らないでほしいな。埃が舞って本が読みづらいよ」

「あら、ごめんなさい」

 可愛らしく舌を見せたライラックは大人しく床に降り、本が広げられた机に肘をついた。

 リジーナは本から顔を上げ、彼の首を見つめる。そこに巻き付いていたはずの窮屈な鎖は、いつの間にか跡形もなく消えていた。

「そんなに見つめられると恥ずかしいわ」

「え。あっ、違っ」

 ぼやっとしていたせいで、見つめ返されている事に気が付かなかった。慌てて視線を逸らしたリジーナを面白がるように、ライラックはケラケラと腹を抱えて笑う。

 熱くなっていく頬を抑えながら、集中しよう、と本に目を落とす。だが、一向に頬の熱さは引いていかない。その視界に、首もとで揺れるペンダントが映った。

 踏まれたり蹴られたりしたというのに傷一つないそれは、当初の薄黄紫色だけでなく、リジーナのドレスと同じ天色が混ざっていた。

「綺麗な色をしてるわよねえ」

 うっとりした顔つきでペンダントをつついたライラックの右目は、左目の菫色と違い、薔薇色に染まっている。

 ――こんな風になるとは思わなかったなあ。

 手紙の内容を信じ、ガニアン国を出る前日にライラックから教えられたのは、「精霊と一体化する」方法だった。

 ペンダントの宝石は元々、聖剣の柄に埋め込まれていたものだ。それはライラックの本体――いわば「心臓部分」なのだという。

「アタシに選ばれた人が聖剣を使えば、一振りで何百という人を傷つけることが出来る。そうでない人が使えば、それは鈍と化して、持ち上げる事すら出来なくなるの」

 初めは主人として選ばれたとしても、いつ聖剣を持てなくなるか分からない。それは困る、と精霊を閉じ込めるようセシルに依頼された呪術師は、聖剣に埋め込まれていた宝石を外し、逃げられないよう呪術を施した幾つもの小さな宝石で囲い、ペンダントに仕上げた。

「それを解くには、アタシと聖剣との繋がりを断つしかないの」

 そしてその方法も、一つしかない。

 ライラックの役目はいわば「守護」だ。聖剣が正しく使われるよう、傷つかないよう守る存在だった。その彼に血を注ぎ込み、受け入れられることにより、守護対象を入れ替えることが出来るのだという。

 ただし、精霊を受け入れている最中に、身を焼かれるような激痛を伴う。その為に、ライラックとしてはあまり取りたくない方法だったようだ。

 結果的にリジーナはあの場で自分を傷つける事によってライラックと一体化し、守護者を失った聖剣は砕け散った。その際に、ライラックを拘束するかのように巻き付けられていた鎖も消失したようだ。

「それにしても、ガニアンと比べたら狭い書庫ね」

 埃っぽいし、と何度か咳をしたライラックは窓の外に目を向ける。

「……王子様たち、大丈夫かしら」

「落ち着いたら連絡をくれるって言っていたから、大丈夫だと思うよ」

 反乱が終結して三日経つ。窓の外に見える山の向こうでは、色々後処理が行われているのだろう。何か出来ることは無いかと聞いたのだが、一旦国に帰った方が言われてしまったのだ。

 アリウムが降参宣言をしたすぐ後、駆けつけた兵士によって二人や他の部下たちは地下牢へと身柄を移された。セシルはその場で治療を受けているらしく、リジーナが渡した薬を飲んでいるそうだ。

 また、城や城下町で傷ついた者たちも多く、フォルティス国からも薬草とともに医師団が救援に向かった。火事や倒壊などでボロボロになってしまった城下町も急いで復旧作業が行われているという。

 ビアナがしてしまったことについては、リジーナの口からフォセカへと伝えた。彼女自身、自分の起こした行動が妹を危険に晒すことになるとは思っていなかっただろうと、いうフォセカの配慮で牢へは入れられなかったが、ビアナにとっては重い決断を下された。

「お姉さんも可哀想にねぇ」

 ページを捲りあげながら呟いたライラックに、「仕方ないよ」とため息交じりに答える。

 無自覚とはいえ反乱軍に手を貸してしまったのだ。フォセカが下したのは、「ガニアン国王妃となる権利を失う」事だった。

 最終的な判断をしたのはエリアナだろう。フォセカが彼女にこのことを伝えていないとは思えない。ビアナは文句も言わずにそれを受け入れた。

「リジーナちゃん、そろそろ決めた?」

「まだ、かな」

「優柔不断って言うのよ、そういうの」

 つん、と頬を突かれ、リジーナはライラックに同じことをし返した。

「だって難しいよ」とぼやき、所々に蜘蛛の巣がちらつく天井を見上げる。「どうせなら『お前を王妃にすることにした。拒否権はない』とか言われた方が楽だったよ」

 ビアナが王妃になる権利を失ったことにより、リジーナはフォセカの嫁になることが決まった――かと思えた。だが、フォセカの口から告げられたのは、「嫁ぐかどうか、その判断はリジーナの自由だ」という何とも言えない一言だった。

 彼なりに国内での争いに巻き込んでしまった事に罪悪感を抱いていたらしい。もし嫌なら断ってくれても構わない、という一言と共に、落ち着くまではと国へ帰されてしまった。

「それに、反乱が起きる前日に『お前を妃にする』とか言ってたのに。なんなの、もう」

「珍しいわねえ、リジーナちゃんが不満を漏らすなんて」

「だって、言ってる事が変わってるじゃない! あの時の言葉は何だったのって問い質したい気分だわ」

 ぷくう、と頬を膨らませていると、なんだかそういうところそっくりだわ、とライラックが懐かしげに目を細めた。誰に似ているというのか。問いかけようとしたところで、ノックの音が三回聞こえた。

 一体誰だろうか。返事をするより先に、ゆっくりとドアノブが回された。

 まさかカルラだろうか。身構えるリジーナの耳に、「お客様です」と心なしか浮ついたアルネの声が届いた。

 ひょっとして、扉の前にいるのは。待ちきれずに立ち上がり、リジーナは扉へと歩み寄ってドアノブに手を伸ばし、勢いよく開けた。

「うわっ! うわ、びっくりした」

「そのセリフ、そっくりそのままお返しするわ」

 扉の前に立っていた青年は、若紫色の瞳を何度も瞬いた。その後ろに控えていたアルネは頭を下げ、満面の笑顔で去っていく。

 何の音沙汰もなしに突然来るなんて、と文句を言いたくなったが、若干の疲れが滲む表情を前に何も言えなくなる。はー、と長い息を吐き、「とりあえず入って」と青年――フォセカを招き入れた。

 首元までを覆う深紅の上着は防寒に適していそうだ。おずおずと部屋に入ってきたフォセカを、じとー、と睨みつける。

 頬には傷の痕がくっきりと残されている。服の下も同様だろう。

「大変だったのは分かるけれど、せめて何か知らせてから来ない?」

「いや、ほんと単純に忘れてて」

 本の置き場と化していた椅子を引きずり出し、自分が座っていた椅子を彼に差し出す。フォセカは大人しくそれに腰かけ、興味深そうに書庫を見回した。リジーナはその向かい側に座り、ライラックは机の上へと浮き上がった。

「狭いけど、いい部屋じゃないか」

「最初の一言が余計だけど、言い返せないかな」

「俺はこういうところ好きだぞ」

「そういう話をしに来たわけじゃないでしょう?」

 単刀直入に言いなさい、と目で訴えると、観念したように彼は口を開いた。

「まず、大量の薬草を送ってくれて感謝する。さっき陛下にも伝えて来た」

「お父様、心配していたからね。力になれたならよかったとか言ってたんじゃない?」

「全く同じことを仰ってたよ。それと、」

 気のせいか、フォセカの頬が赤く染まっているようだ。

「リジーナはガニアン国へ行くのか、とも聞かれた」

「…………」

 父にはまだそのことを話していなかったのに、どこから漏れたのか。多分姉から母へ、母から父へ、という具合だろう。父のその言葉はどこか悲しみと不安が混じり合っているようだ。

 自分の中で答えは決まっている。けれど、それを口にするだけの度胸が自分には備わっていなかった。

 次第に熱くなっていく頬が、ひんやりとした手に包み込まれる。驚いて顔を上げると、心配そうに覗き込むフォセカと目があった。

 助けを求める様にライラックを見ると、「大丈夫よ」とウインクをされてしまった。大丈夫じゃないから助けてって言ってるのに、と唇を噛む。

 ああ、もう。言ってしまえ。リジーナはフォセカの手を取り、すうっと大きく息を吸い込んだ。

「私にとっての幸せは、あなたとずっと一緒にいられること以外にないわ」

 胸を張って伝えた言葉に、フォセカもライラックもしんと静まり返ってしまった。

 何かまずかっただろうかと戸惑っていると、ハッとしたようにフォセカがリジーナの肩を引き寄せた。

「そう言ってもらえてありがたいよ、ホントに」

 気のせいか、彼の声も震えている。泣くのを堪えているのか。リジーナはフォセカの背に腕を回し、きゅう、とか弱い力で抱きしめた。

 数日前に、一目ぼれしたと言ってくれたアリウムを思い出した。その思いは嬉しくもあり、ありがたくもあったが、フォセカを思う気持ちを上回ることは無かった。

 ひた、と頬に彼の手が添えられる。目を閉じれば、唇に微かな温かさが重ねられた。

 一瞬のようにも、十秒以上にも感じられた。惜しむように離れていったその温もりを追うように、リジーナは人差し指で唇に触れる。

「さて、それじゃあ行くか」

「え、行くってどこに」

 リジーナの手を握って立ち上がったフォセカは、迷うことなく書庫の扉へと近づいていく。散らばった本を足先で蹴飛ばさない様に気を付けながら歩くせいでふらつくが、なんとかついていく。その後ろをふよふよと浮きながら付いてきたライラックは、周囲に花が飛んでいるのではないかと錯覚してしまいそうなほど嬉しそうに笑っていた。

 扉の前で立ち止まったフォセカはリジーナの手を一層強く握り、

「もう一度陛下のところに。リジーナからの答えを聞いてもらわないとな」

「ちょっと待って、そっくりそのまま言うつもり?」

「その方が面白いだろ」

「せめて恥ずかしくない程度に言い換えてよお願いだから!」

 意気揚々と廊下へ歩き出し、それに引っ張られるようにしてリジーナも歩き出す。

 その背中を微笑ましく見送りながら、ライラックは遠い昔に見た快活な笑顔を思い出し、呟いた。

「本当に似てるわね、若い頃のエリザベスに」

 かつて一国を築き、守り抜いた女英雄の名は、誰にも聞かれることなく空気に溶け込んでいった。

                              終

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