第26話

 これは、どういうことか。

 煤で黒ずんだ石畳の道を進みながら、リジーナは驚きに目を見開いていた。

 酷い攻撃をされたのだろう、道に沿う民家の大半からは黒い煙が昇っていた。あちこちから呻き声や泣き声が聞こえ、道端には目を背けたくなるような遺体も放置されている。

「全部、セシルたちがやったの……?」

「そうだろうね。まさかここまでひどいことしてるとは思わなかったけど」

 同じように辺りを見回していたアリウムの返答は強張っていた。どうやらそれは本音らしく、見上げた彼の頬には汗が伝っていた。

 二人が走っている東の大通りに、反乱軍が全くいないわけではなかった。リジーナを目にした者は手にしていた武器を振りかざしたが、彼女の後ろにいるアリウムを見つけると戸惑ったように腕を下ろした。

 一人でここを走っていたらこうはいかなかっただろう。リジーナは手綱を握るアリウムの手に一瞬目を落とし、小さく息をつく。

 目前に迫る城を見上げ、フォセカたちは無事だろうかと唇を噛む。早く彼のもとに戻らないと。アルネもビアナも怪我をしていなければいいのだが。

 その時、

「っ!」

 二人の耳に轟音が届いた。それとほぼ同時に城からは黒煙がもうもうと上がる。その中にちらほらと火の粉が混じっており、時折ちかりと瞬いた。

 城下町に反乱軍が少ないと思っていたら、すでに城まで侵攻していたらしい。

 リジーナは口元を抑え、ふるふると肩を震わせる。

 ――ひょっとして、フォセカやお姉様は……!

 今にも溢れそうな涙を乱暴に袖で拭った彼女を見遣り、アリウムは手綱を握りしめた。

 彼女が想いを寄せているのは、間違いなくフォセカだろう。その彼がいなくなれば、彼女は自分の傍へと来てくれるだろうか。

 ――無理、かなあ。

 こんな状況で何を考えているのだろう、と自嘲気味の笑みが漏れた。リジーナに気付かれるまえに表情を戻し、城を見つめる。

 今の自分に出来る事は、父の病を癒す薬を持った彼女を無事に城へと連れていく事だけだ。自分がいる限り、反乱軍の仲間は攻撃しては来ないだろう。

 三本の大通りが交わる場所を通り過ぎ、跳ね橋へと続く一本道を駆けていく。

「父さんの事だし、もうおばさんのところに行ってると思う。まずはそこに行こう」

 アリウムの提案に頷いたリジーナの目から、拭いきれなかった涙が零れ落ちた。

 城門を潜った先にある庭園へ突入する。そこでは、様々な武器を手に暴れまわる男たちと、彼らを城へ侵入させまいと抗う兵士が攻防を繰り広げていた。

「走り抜けるよ!」

 言葉と共に腹を蹴られた馬は嘶き、突然現れたアリウムとリジーナに動揺する兵士や男たちをかき分けながら正面のホールへと駆けた。

 入り口を通り抜けて着いたそこでも攻防が繰り広げられていた。ある者は息絶え、ある者は傷を負い床に倒れ伏している。

 反乱軍を退けた兵士が数人アリウムに駆け寄り剣を向けたが、「邪魔」とだけ呟いた彼はベルトから鞭を引き抜き、洗練された動きで彼らを弾いた。

「このまま行きましょう! 時間が惜しいもの」

「分かった。急ごう!」

 手綱をぐっと握り、無我夢中で馬を駆った。

 城内は混乱を極めていた。ただでさえ反乱軍が侵入してきたと慌てているのに、馬のまま城を走り回る者まで加わったのだ。通りかかった女官達の表情は疲れと怯えが混じり合っていた。

 書庫へと続く螺旋階段の前を右に曲がり、そこから続く廊下の中央に設けられたもう一つの階段が玉座の前へと行けるただ一つの経路だ。

「ここからは自分の脚で行ったほうが良さげだね、っと!」

 言いながら軽やかに馬を下り、手にした鞭をびんっと張ったアリウムはリジーナを庇うように先を走る。リジーナはスカートを踏まないよう手で摘まみ、螺旋階段を駆け上がった。

 螺旋階段では多くの兵士が倒れていた。その多くは一命を取り留めているようだったが、一部の者は既に息絶えている。それを目の当たりにしてしまったリジーナの足が止まり、がたがたと震えだした。

 ここを守っていたであろう彼らが倒れているという事は、つまり。それを考えただけで気を失いそうだった。

 それを察したのだろう、数歩先で止まったアリウムは「乗って」と背中を指さし、半ば強引にリジーナを担いだ。

「目、閉じてなよ。もうすぐ着くんだろうし」

「……ごめん、なさい」

 彼の背で震えながら謝り、アリウムの肩に乗せた手に頭を落とした。

 成人間近の女性を背負っているにも関わらず、アリウムはまるで猿のように螺旋階段を駆け上がっていく。

「うーわっ……」

 どこか恐れる様な声色と共に立ち止まる。何かあったのかとリジーナは瞼を開け、

「っ!」

 扉が崩壊し、露わになっていた玉座の間で剣を振るうフォセカと、それを余裕で受け止めながら彼を追い詰めるセシルを目にした。

 すでに満身創痍のフォセカは、腕や腹、脚など至る所から血を流している。一方、セシルは傷一つ負っていない。聖剣の模造品を背に玉座に腰かけていたエリアナは、リジーナとアリウムに気付き、助けを求めるように立ち上がった。

 このままではまずい。

「フォセカっ!」

 ビリビリと空気を切り裂くほどの声を張り上げ、セシルの意識を強引にこちらへ向けさせる。リジーナを目に止めたセシルは「何故ここにいる」と言いたげに眉を顰めた。

 さらにアリウムにも気が付いたセシルの体が、ほんの一瞬だけ硬直した。

 その隙を見逃さなかったのだろう。

 力を振り絞るようにフォセカは腕を振り上げ、剣の切っ先がペンダントの紐をぷつりと切断した。

 かつん、とペンダントが床に転がり落ち、それと共に聖剣の淀んだ光が消え去る。その直後、聖剣を軽々と持ち上げていたセシルの腕が真っ直ぐに落ち、聖剣が床へ転がった。

「貴様……!」

 恨みがましく睨まれながら、フォセカは足元に転がったペンダントを足で踏む。さらにそれをリジーナの方へ向かって蹴とばした。

「アリウムさん、これ借りるね!」

「え?」

 彼の腰に装備されていたナイフを引き抜き、急いで背から下りたリジーナは、くるくると回転しながら滑ってくるペンダントを拾い上げた。

 やっと取り戻せた。安堵から思わず座り込み、何者かの気配を感じてはっと顔を上げる。

 そこに居たのは、

「ライラック……?」

 氷のように冷たい目つきでこちらを見下ろす彼に、思わず身が竦んだ。

 どうやらまだセシルの影響を受けているらしい。彼の首や腹に巻き付けられた鎖には、鈍く淀んだ光が纏わりついている。リジーナが接していた時のライラックに戻るには、まだ時間がかかるのかもしれない。

「それをこちらに寄越せ」

 地の底から響くような声に、びくっと肩が震えた。

 ライラックの向こうに見えたのは、胸倉を掴みあげられ苦しげに呻くフォセカと、彼の首筋にナイフを当てるセシルだった。

「フォセカ!」

「早くしなければ、こいつの命はすぐに消えるぞ」

 ひたひたと刃を当てられるたびに、フォセカの表情が歪む。抵抗する力も残されていないのか、剣を握っていた右手はだらりと下がったままだ。

「その手を離しなさい、セシル」

 静かに、しかし激しい怒りを湛えた声が響く。リジーナの瞳に映ったのは、倒れていた兵の剣を手に取り、慣れない手つきで構えるエリアナの姿だった。

「息子から手を離しなさいと言っているのです」

「そんな震えた腕で何が出来る?」

 彼の言う通り、エリアナの手に握られたそれは小刻みに震えている。

 ペンダントを渡すことを拒否すれば、セシルは躊躇うことなくフォセカの首を掻き切るだろう。だが、渡せばセシルは聖剣を再び手にし、自分たちを殺しに来るかもしれない。

 セシルはアリウムに目を向けると、顎でリジーナを差す。ペンダントを奪え、と指示しているのだろう。

「今はそれどころじゃないんだよ、父さん」

 努めて冷静さを保っているのか、リジーナを庇うように歩み出たアリウムは険しい顔つきで続ける。

「彼女に聞いたんだ。父さんは病気のせいで明日をも知れぬ体なんだって」

「なるほど。お前はその出まかせを信じ、そいつを解放したと?」

「出まかせなんかじゃない! あなたの呼気から感じた甘い香りは、エリアナ王妃が患っている病の特徴と同じだった!」

「私、と? それはどういうことですか」

 自分の名前を出されると思っていなかったのだろう、エリアナの腕が僅かに下がった。

 だが、セシルは未だに信じていないらしい。「それがどうした」と手に持ったナイフをフォセカに近づける。

「さっさとそれを渡せ小娘」

「ダメだ……聖剣を持たせるわけには……!」

 力ない声で訴えながら、荒い息を吐いたフォセカはセシルの腕を引きはがそうと手を伸ばす。だが、何の効果もありはしなかった。

 ペンダントを左手に、アリウムから借りたナイフを右手に握ったリジーナは、自分の目の前で浮くライラックに目を遣った。いつの間にか元に戻っていたのか、彼から漂っていた空気は穢れのない澄んだものへ変化していた。

 静かに場を見守っていたライラックと目が合う。何もかも察したように、静かに瞼が閉ざされた。

 ――あなたから教えてもらった方法、使うね。

 ゆるりと立ち上がり、リジーナはセシルに向かって左手を突き出した。

「渡す気になったか。それをここまで持ってこい。こいつの命と交換しようじゃないか」

「ぐっ……!」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、フォセカに突き付けていたナイフがリジーナへと向けられる。持っていけば、確実に切り付けられるだろう。そのことに感づいたのか、顔だけ振り向いたアリウムは「行っちゃダメだ」と腕を広げ、リジーナの行く手を阻んだ。

 なかなかペンダントを渡そうとしないリジーナに苛立ちを覚えたのか、セシルが小さく舌打ちをする。そして再びフォセカの首へナイフを突きつけた。

 渡すな、とフォセカの目が訴える。行くな、とアリウムの背中が語る。

 それに対し、ふっと微笑んだリジーナは、右手のゆるりと持ち上げ、そして。

 躊躇うことなく、ペンダントを持つ左の掌を切り付けた。

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