押しボタンの先
鈴木魚(幌宵さかな)
押しボタンの先
はぁーと大きなため息を私はついた。
目の前の押しボタン信号機は「押さないんですか?」というような蔑んだ視線で私を見てくる。
むかつく。
こんな場所に来るとは2ヶ月前には夢にも思わなかった。
それなのに、いろんな要因が重なって、私はここに立っている。
何をやってんだろうと自分が情けなくなってくる。
大学を卒業後私はそれなりに名前の知れた企業に就職をし、忙しいなりにも充実した毎日を送っていた。
そんな毎日が変わったのは、部署異動で、営業部に配属されてから。
営業部の仕事は目が回るように忙しくて、毎日終電で帰宅し、メイク落としながら泥のように眠る。
その数時間後には満員電車でボロボロになりながら出勤する。
そんな生活をしているうちに私は心身ともに疲弊してしまっていた。
気付いた時には、私は病院に搬送されていた。
心身のキャパオーバーで会社でぶっ倒れたらしい。
まだ会社だったからよかったようなもので、通勤中の階段や駅のホームだったらと思うとゾッとする。
倒れたことによって、会社からしばらくの休職を言いわたされ、久しぶりに何もない時間を私は過ごした。
病院の高層階に入院していたため窓からはビルの隙間を縫って緑の山脈が見えていた。
それを見た瞬間、地元の風景と思い出がいっぺんにフラッシュバックして、私は子供のように泣きじゃくってしまった。
なぜだかはわからない。ずっと我慢してきたものが堰切ったように押し寄せて止めようがなかった。
何もないけど、楽しかった子供の頃の記憶に軽いホームシックになったのかもしれない。
その時初めて私は地元に戻りたいと強く思った。
はぁーという大きなため息とともに時間は今に戻る。
見つめた先にある狭い道路と押しボタン式の横断歩道。
この道を渡った先が実家なのだが、数十年ぶりの帰省で一体どんな顔をして帰ればいいのかわからず、先ほどから歩道に立ち尽くしていた。
そんな私を、押しボタンにデザインされた梟みたいなキャラクターがバカにしたように見てくるのが悔しい。
でも一番悔しいのは、ここまできてウジウジとしている私自身なのもわかっている。
「あーもう。なんなのよ。」
不満を口に出して、押しボタンを見つめる。
私は怖いんだ。ずっと帰らなかった実家に帰るのが怖い。
どんなことを言われるか、何を話せばいいのかと不安で頭がいっぱいになっている。
でも、私のいれる場所はもうここしかなくて……。
何度かのため息をつくと梟のキャラクターと目が合ってしまう。
「ここまできて帰りますか?」そんな空耳が聴こえた。
「帰るところがないの!」
心の声が口から溢れる。
もう押すしかないんだ。
私は梟のキャクターを睨みつける。くそ、負けるものか。
「あ、ぁあ、馬鹿野郎ー!」
私は、勢いで押しボタンを人差し指で強く押した。
押した瞬間に息が止まる気がした。
すぐに車道側の信号が赤に変わり、横断歩道の手前で車が止まった。
私の目の前の信号は青に変わり、向こう側への道が切り開かれた。
もう後戻りはできない。
私はお腹に力を入れて、その先へと一歩を踏み出した。
押しボタンの先 鈴木魚(幌宵さかな) @horoyoisakana
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