こよなき悲しみ 第三話 尊きもの

かねむ

 雲ひとつない空と、果てのない海——境界の曖昧なふたつの青を別つのは、水平線の先で白く泡立つ波だけだ。天気が良く、海が穏やかであることを確かめたノアは、朝早くに村を抜け出すと、小走りで浜へと向かった。砂浜を裸足で駆ける。きめ細かな白い砂は、陽を浴びて温かい。子供の頃から幾度となく味わった砂の感触を、噛みしめる。この場所と同じような砂が、これから向かう先にもあればいいな——そう、切に願った。

 浜辺の岩陰に隠しておいた小舟は無事だった。ヤシの葉でこしらえた覆いを取り、背負っていた僅かな荷物を詰め込んで、船を海へと押す。寄せる波も手伝って、船はすぐに水の上を滑り出した。船に飛び乗り、櫂で漕ぐ。沖に出たところで、畳んでいた帆を張った。帆は優しい潮の香りを纏った追い風を受けて膨らみ、船の速度が一気に上がる。岸はみるみる小さくなっていき、やがて見えなくなった。ノアは故郷を棄てたのだ。

 元々、故郷は平和な場所だった。燦々と降り注ぐ太陽の下で、人々は慎ましく暮らし、集落全体がひとつの家族のようで、誰かが傷付けば涙を流し、誰かに良いことがあれば共に喜ぶ——そんな豊かな心の持ち主たちに囲まれて、ノアは幸せだった。何処からか流れ着いた、ある旅人が現れるまでは。旅人は妙に魅力的な男で、瞬く間に皆の心を掴み、ひとりずつ、その心を毒していった。諍いの絶えない故郷にうんざりし出した頃、ノアはある噂を耳にする。

『海を越えた西の果て、黄金ヤシの生い茂る浜辺に、平和な楽園——蒼ヶ浜と呼ばれる場所があるらしい』

 かつて感じた平安を、再び感じられるような地があるなら、そこに行きたい。ノアは迷わず、準備を始めた。

 故郷のあった方角を、もう一度見つめる。きっと、誰かが自身の不在に気付き、自宅に残した置き手紙を見つける頃だろう。そして、誰のせいで村一番の漁師が村を去ることになったのかと、互いを責めあうに違いない。頭上で、カモメが鳴いた。まだ陸が近いのだ。今ならまだ、引き返せる。

「さようなら。みんな」

 水平線に、別れの言葉を吐いた。ノアの決意は固い。やがて、カモメの姿は見えなくなった。

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