二章四話 鈍痛
「いただきます」
室内は暗い。照明はしっかり機能しているが、暗いと感じるのは明るさの問題ではなく気持ちの問題だった。
何年も過ごし続けているリビング。しかしここで心穏やかに過ごした記憶はない。コーヒーカップから立ち上る湯気と、焼けたトーストの色味が朝の演出に一役買っていた。そのくらいの“らしさ”がなければ、日が昇っただけのこの時間が紛い物に思えてくる。
「ごちそうさまでした」
今、リビングで音を作ることができるのは自分だけ。しかし余韻を残さず朝の空気に声は沈み、どうしようもない静寂が舞い込んでくる。
好きでもないコーヒーの苦みが口に残っていて気持ちが悪い。
(……)
食器を片す。歯を磨く。ブレザーの制服を着る。一連の行動に特に感慨は無い。そうして代わり映えのしない日常の一つ一つをこなしていくことで、今日も淡々と生きているのだと自覚できた。
氷室沙凪の朝は孤独から始まり、世界から隔絶されたような感覚を心に植え付けたまま進んでいく。
「……行ってきます」
声に反響は無いが、虚しく響く挨拶も決められたルーチンの一つだった。今更気に留めるようなことでもない。
マンションのエレベーターで目を伏せて耳を澄ます。奴隷のように動き続ける機械の音が心に僅かな安らぎを与えてくれた。
(……痛い……)
右脳辺りに鈍く、しかし鋭く痛みが走る。気圧、精神状態、体調、悩み、そして偏頭痛。頭に太い針でも刺された気分だ。
俯くと、頭痛がする。
ロビーを抜けて外に出ると冷えた朝の空気が出迎えてくれた。早朝の日差しは朧雲に遮られており、春の温かさはとうに失われている。もう5月も中旬になったことを教えてくれているようだった。
沙凪はいつもの通学路を歩む。最寄りの駅までは徒歩で、十分おきに訪れる急行を利用して十数分ほど揺られる、いつもの道程。電車内では知らない学校の生徒たちが楽しそうに会話していた。
(……)
それを見て思うことは特にない。
孤独が這うだけの自身と、青春を謳歌する他者を比較しても時間の無駄と分かっているからだ。
イヤホンをつけてドイツ語学習用の音源を再生する。全てを正確に聴き取れるわけではないが、なんとなく会話の内容も頭に入ってくるようになっていた。
「新作フラペチーノ、クッキーだって! 先行で飲み行くか」
「最近の放課後カロリー高いじゃん、やめとこうよ~」
耳元で流れる音量より、向かいの席に座る女子高生の声ばかり耳に入ってくる。甘いものも放課後の遊びも興味がないので意識から遮断した。
「今日テスト返ってくんじゃん、やべーよな。俺最初のテストで赤点取ったらスマホ没収なんだけど」
「最初っから赤点の心配するのがやばいんでない? ちゃんと勉強しとけばよかったのに」
吊り革を持って気だるげに立っている男子高生の声を耳が拾う。この時期はどの高校も定期テストの話題ばかりで、電車内の学生はそのことを気にする者の方が多かった。沙凪の高校も今日が返却日ではあるのだが、結果に興味はないので意識から遮断する。
「ねね、あっくん今日部活はやめに終わったりしない? 卓球部今日までオフでさ、どっかお出掛けしたいなーって」
「あー……今日自主練らしーんだよな。周りのモチベによる」
「えー、頑張るのか頑張らないのかはっきりしてよー」
隣に座って身を寄せ合う男女のカップルが、耳打ちくらいの声量で会話している。一際声を落としている会話でも隣に座っていればさすがに聞こえてくるため、盗み聞きしているような感じの悪さがあった。
交際という概念にも、部活動にも興味はないので意識から遮断する。
「……はぁ」
小さく、誰にも聞こえない音で溜め息を吐いた。
ドイツ語の会話が周りの声で雑音にしかならない。気を紛らわせるために愛用しているアプリを起動する。チープなデザインのタイトル画面が表示され、タップすると現在進行していたステージが再開された。
ステージ223、沙凪が自身に唯一許している娯楽である暇潰し用のパズルゲームは、終わりの見えないステージ数にして難易度も上がり始めている。
髪の毛を片手で軽く撫でて整え、無表情を貫いてパズルを解く。僅か数分でクリアし、次のステージに進もうとすると動画広告が連続して再生された。
『超有名脱毛サロンが無料で利用できちゃうってホント!? 試してみました』
興味がない。表示時間終了後に設定から非表示にした。
『ゲーム世界に転生した私は、主人公をいじめる悪役令嬢でした~ここから主人公ちゃんに好かれる保険ってまだ入れますか?~』
興味がない。非表示にする。
(……)
アプリを閉じた。唯一の娯楽は広告でいらないものばかり与えようとしてくる。そんな無為な時間を過ごしては、最初から単語帳でも開けばよかったと軽く後悔して降車駅に到着する。沙凪の朝はこのパターンに嵌まることが多かった。
駅からは徒歩で数分もすると高校に着く。流石に最寄りの駅にもなると同じ学校の生徒の姿がほとんどになり、桜並木のあった道は緑と黒で埋め尽くされていた。
沙凪の通う
4月の中旬に校舎の改装工事が行われたことで新しさを感じる外観にはなったものの、中学生の頃から形そのものは変わっていない。黒い群衆を呑み込んでいく灰色の校舎が刑務所のように思えてならなかった。
校舎内を変わらない足取りで進んでクラスに向かう。教室に着くと誰と話すわけでもなく席に着き、スマートフォンの電源を落として一限目の準備を始める。
「おはよう、氷室さん」
不意に声を掛けられた。席の近くまでやってきたのは同じクラスの女子生徒、折原琴葉だった。栗色の柔らかそうな髪と細い目に、非常に女性的な体型。おっとりしていて誰とでも仲良くなれるような人柄の彼女は、口元に微笑を刻んでいた。
「……おはようございます」
「今日、テストの結果張り出されるね。楽しみ?」
「いえ……特には」
細い目と視線を交えて喋る。彼女と沙凪は特別仲が良いということはなく、どちらかといえば会話はしないくらいの距離感だった。
そもそも沙凪は学校内に仲が良い友人と呼べる人物が存在しない。作らない、といったほうが正しいのかもしれないが。
俯くと、頭痛がする。
「氷室さん、中等部の頃からすごかったもんね。今回はどうかなーって思って」
「自己採点した結果はいつもと変わりませんでしたよ」
「わ、すごーい。わたし自分の名前より先に探しちゃうかも、氷室さんのこと」
にこやかに話を続けてくる琴葉は、学年内でも特に交友関係を広く持っている。それでいて勉学にもしっかり励んでおり、成績も中学の頃から上位をキープし続ける器用さがあった。
そんな彼女は稀に、朝のホームルームまでの時間で沙凪に話しかけてくることがある。そこに裏表はなく純粋に関わろうという意思が感じられ、話すたびに彼女の人柄の良さを再認識させられた。
しかし――興味はないので、適当に返事をしながら会話の内容は記憶から遮断する。
折原琴葉は優等生だ。それは成績と、ボランティア精神に溢れる絵に描いた善人のような人柄を加味した評価であった。
対して、氷室沙凪は。
「氷室さん――すごいですね。さすがです、これからも頑張ってください」
「……先生。はい……ありがとうございます」
昼休み――廊下の電光掲示板に記された今回のテスト成績順位を見て、特に感慨もなくその場を去ろうとした沙凪に担任教師が声を掛けてきた。少し背の低い、眼鏡をかけた朗らかな女性教師だ。
「なかなか見ないって先生の間でも話題になってますよ。全科目満点だなんて」
「勉強だけはしていますので」
「あはは、いい姿勢だと思います。でも……たまには息抜きもしてくださいね、ほんの少しのことでも良いので」
「……はい」
氷室沙凪は、中学の入学試験の頃から全ての試験、全ての科目で満点を取り続けてきた。数値化される成績と授業態度という面では間違いなく優等生だ。
しかしわざわざ担任が息抜き、と言ってきたのには相応の理由があった。
沙凪はこの学校内で友人を一度も作ろうとしたことがなく、常に孤高の存在であり続けている。幾ら定期テストの総合得点で一位を獲得したところで、好き好んで沙凪と関わろうとする生徒はいない。折原琴葉は例外としても沙凪に他者と親しくするつもりがないのだから、友人など出来るはずもなかった。
日差しの届かない廊下は冷えていて、少し寒気がした。
俯くと、頭痛がする。
一日の授業も終え、ホームルームが終わると沙凪はすぐに校舎をあとにする。部活動には所属していない。誰よりも早く駅に向かって電車に乗り、数駅先で降りるのが放課後のルーチンとなっていた。
『次は――、お出口は右側。足元にご注意ください』
駅内のアナウンスが鳴り、しばらくして扉が開く。少しこじんまりとしたホームから改札に向かい、駅を出て足早に目的地――病院へ歩いた。
時間には余裕をもって生活する彼女も、この時ばかりはいつもより早く足を進めている。程なくして病院に辿り着き、受付を済ませていつもの病室に向かった。エレベーターよりも階段の方が早いことが最近分かったので、駆け足で階段を上がっていく。
「……失礼します、今日も元気ですか?」
氷室沙凪は、数値化された成績でのみ優等生。
人と極力関わろうとせず、面接練習などの必要な時以外は協調性を発揮するつもりもない生活を送ってきた。口数も少なく、趣味もこれといってない。人生で最も時間を消費した先は勉学一択である。
そんな彼女も病院の、いつもの病室に入った時だけは口数が増える。彼女の一日は放課後の面会できる時間のためだけに存在していた。
「――また明日。おやすみなさい」
まだ日は上っているが、いつもの挨拶をして病院をあとにした。
帰りの電車内では朝に見かけたカップルや女子高生の姿があり、朝と同じように会話を意識から遮断して存在を認識しないようにする。
スマートフォンの電源をつけてパズルのアプリを開く。ステージ224。難易度はあまり変わっていない。広告が流れてくる。不適切なものは非表示に設定した。
自身の生活は、この設定と同じだと思った。
雑音を遮断する、広告を非表示にする。会話の内容を記憶しない、広告を非表示にする。俯くと頭痛がするから下は見ない、広告を非表示にする。
そんな世界のそんな日常。無味無臭で無色透明、ただゆっくりと向かってくる未来のためだけに勉強を積み重ねるだけの毎日。それは帰宅しても変わらない。
駅からマンションまで歩いた。マンションに着くとオートロックを解除してエレベーターに乗る。両親と沙凪の三人で暮らす自宅は、いつも沙凪が一番最後に出て一番最初に返ってくる。
「ただいま戻りました」
声に返事はない。朝から時間が止まったような涼しさと静けさだけが出迎えてくれた。
身支度を済ませて夕食を作り、自分の分だけ先に食べる。片付けや入浴などを手早く済ませてしまい、ドライヤーで髪を乾かしていると鏡の向こうの自分と目が合った。
「……髪、伸びたな……」
ぽつりと、その日初めて独り言が漏れた。肌にも髪にも手入れには気を遣っているだけあって、容姿は誰の目から見ても整っていると思う――そうしなければならないだけで、本当はどうでも良いけれど。
親はきっと帰りが遅い。両親はともに脳神経外科医であり、残業や夜勤などで家に居ない時間の方が多かった。連絡がないあたり今日は深夜手前には帰ってくるのだろうがその時間は既に寝ているだろう。
“満点……そう、今回もちゃんと取れたのね”
“何か用か? 悪いが忙しくてな。後にしてくれないか”
母と父の顔が一瞬だけ浮かんだ。厳かな顔つきの二人が笑っているところは見たことがない。それは沙凪が親の示した学校の受験で主席合格しても、テストで全科目満点をとっても、年中勉強を続けていても同じだった。
テストで満点を取ることは当たり前。両親の態度から、言葉にならない思惑が伝わってくる。今回のテスト結果は直接見せられるまで日を跨いでしまいそうなのでリビングに置いておくことした。
「――ただいま」
「……!」
風呂上りのやや上気する身体のまま、玄関からの声に驚く。母が帰宅したようだった。
自身と同じ薄緑色の髪の母は疲弊を一切表情に出さず、毅然とした態度で現れる。今しがた置いたテストの用紙たちと風呂上がりの沙凪とを交互に見て、ゆっくり口を開いた。
「……今日だったのね、どう? 難しかった?」
「おかえりなさい。いえ、特に変わりありません」
親にも敬語を崩さず、背筋を伸ばして答えた。母は冷たい目で用紙の並びを一瞥すると、短く吐息して返してくる。このやり取りはずっと変わらない。
「肉じゃが……」
次に母が注目したのはテーブルに並べられた夕食だった。荷物を下ろしながら先ほど沙凪が作った今日の料理をじっと見て、やがて静かに視線を沙凪に移す。
「作ったの」
「はい、その……あり合わせですが」
「そう」
短い返答。後に続く言葉はなく会話はあっけなく終了する。身体に一本の針金を入れられているような感覚から解き放たれ、冷や汗が頬を伝った。
母が一度リビングを出ると張り詰めていた空気が一気に弛緩する。肩が痛い、それ以上に頭が痛かった。俯かなくてもこの時ばかりはズキズキと片頭痛が主張を強くしてくるのだ。
氷室沙凪は、優等生でも何でもない。
氷のような親の言葉を受けて、あるかもわからない親の期待に応えるためだけに勉学に励み続ける生き物だった。
親との関わり方も知らない、友人の作り方も分からない。娯楽の世界に足を踏み入れる勇気も、何か今の生活に新たなものを取り入れる勇気もなかった。
ただ俯いたときに増す頭痛と、夕方のひと時のためだけに生きるそれだけの日々。これからもそれは変わることはなく、人生という名の道は針金以上に細く真っ直ぐ続いているのだと確信していた。
夜が終わる。朝が過ぎる。昼が溶ける。夕方が消えていく。
決まったルーチンの、決まった日常。不純物の入る余地はない。
「――あ、氷室さーん! おはよー!」
だからこれは、頭痛で判断力が鈍っただけ。
赤い瞳に魅入られて得体の知れないものが心で蠢いていく。友人とか人付き合いとか、そんなものに時間を割いている余裕は沙凪の人生にはない。
だから――朱島伊吹と再び会うことになったのは、頭痛で正しい判断が出来なくなったから。それだけなのだ。
それ以外に理由も、感情もない。
俯いて、頭痛がしただけ。
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