九相図

「撤退?民間資本が?」


 閉館の見廻中。

 靴音が響く薄暗がりの中、頭の中で昼間の出来事が繰り返される。

 未だ冬が本格的になる前、ようやく薄手の外套を出したばかりの事だった。


「閉鎖?ここを?」

 最初、何を言われたのか解らなかった。

 僕が勤める半官半民のショッピングモール施設の事務所内の事。


「いや、この敷地は物流拠点になるそうだから、閉鎖どころか更地になる」

 苦虫を数十匹噛み殺してから苦き杯で飲干した後の様な落ち着いた声。

 混乱の中で何とか意識だけは現実に留まろうと手探りをしている僕に、施設長はその声で決定事項だけを端的に告げた。


「そんな……でも……利用者さんの数は未だそれなりにあるハズだし……」

 何故か僕は言い訳の様な抗議を発していた。

「それに……ほら、あの、住民センターや住民文化サークル用の部屋だって、どうなるんですか?」

 何とかもっともらしい役人言葉をひねり出す為に見ていた、蛍光灯がちらつき始めた天井の墨や空虚な手振りを今でも明確に思い出す。


「住民サービスに関しては、現在進行中の駅前再開発に吸収・一本化されるそうだ」

 施設長も天井を見上げると軽く溜息を吐く。

 溜め息を吐き終えると、先程僕が淹れて冷め始めたコーヒーを一口飲む。


「それに、利用者の数がある、だと?」

 施設長はコーヒーの苦みなのか、役所の早期定年とは云え初老の割に整った顔を歪ませ、こちらを見据える。

「出生率も落ちて高校卒業後の若年層の流出も止まらず、若年家族の再定着もないこの状況で?設立当初から見てどれだけ減ったか分かってるだろ」

 もっともな事だ。

 僕にしたって、大学卒業後ここに就職したから戻ってきたものの、ただでさえ少ない高校の同級生は、地元の工務店等に行った就職組を除けば、誰一人戻ってきていない。

 その就職組だって、今や独り親方ばかりで、仕事の有る都心部に移るのが多い。

「人口辺りの利用率に均せば……」

「企業側は売上の絶対数が命なのは分かってるだろ?君もここは長いのだろう?『半官半民の第三セクター』とはそう言うことだ」


 施設長のその言葉を思い出しながら夜の見回りを続ける。

 以前はこの閉館の見回りも、警備さんがいるのに無駄な事を、と思っていたが、いざこうなってみると感慨深いモノだ。


 懐中電灯に照らし出される小さな視界にさえ、空きテナントを何とか見栄えよく繕ったスペースが何度も入り込んでくる。

 いや、見た目を誤摩化せているのならまだマシで、パーテイションが剥き出しだったり、もういつのか忘れる程「閉店のお知らせ」が張られたままのスペースもある。

 フードコートなんて、オープンキッチンなものだから、実に見通しの良い事になっている。


 コツン、コツン。


 二階迄吹き抜けの通路に僕の靴音だけが静かによく響く。


 ガラン、ガラン。


 思い返せば、あの頃、ここには僕達の世界の全部があった。

 都心部まで電車で30分、その駅まで行くのに自転車で15分。

 あの頃の僕等の放課後にはそれしかなかった。

 国道に面している地域柄、車さえあれば、個人でやっている大きな専門店やボーリング場等、面白い店がない訳でもないが、よくても原付くらいしか無い僕等には、それらの店は存在しないに等しかった。

 家族に連れて行ってもらうなんて、そんなダサい事、考えたくもなかった。

 当然、普段はそんな時間も電車代もかけていられないから、都心部に行くのは定期試験なんかの半日休みの時か皆で映画を観に行く時が精々で、必然僕等の遊び場は駅前のバーガーチェーンや、いまだに灰皿が当然の様に置かれたゲームセンター、コンビニ前か、それも面倒な時は脇道の自販機だった。

 駅周辺の喫茶店や呑み屋は、大人の臭いがキツ過ぎて、怖くて入れなかった。


 それがある日、この大きな敷地に大きな建物ができた。

 キラキラと白いその中には眩いばかりの「文化」が無料のシャトルバスで僕達を迎え入れてくれた。


 FMラジオや深夜のテレビ番組、音楽雑誌でよく見る有名レコード店。

 店員の趣味全開の商品とポップで埋め尽くされたサブカル書店。

 DVDと入れ替えが始まった頃のレンタルショップ兼大型書店。

 それを持ってるだけで何だかお洒落になれた自然派雑貨店。

 ハイセンスな有名アニメスタジオ直営のグッズショップ。

 手作りヌイグルミや積み木にボードゲーム等の専門店。

 ハイブランド志向に切り換えたファストファッション。

 アメリカから来たお洒落コーヒーショップ。

 ハンドメイドアクセサリーショップ。

 どれもこれも、都心部まで行かないと触れる事のできない存在だった。


 専門店街の反対側には共同資本になった民間総合生活用品店が入り、一般的なスーパーの品目の他、海外資本も入っていた事から、輸入食品等、珍しいお菓子やワインを直接取扱っていた。

 フードコートは、もう、フードコートという存在自体が珍しかった。

 映画館こそ無かったが(今にして思えばそれが痛かったのだが)、日頃の放課後を皆で過ごすのにこんなに素晴らしい場所はなかった。


 放課後の雑談。

 夏休みの避難場所。

 デートスポット。

 みんなここだった。


 ゆかりとの思い出も——


『閉店のお知らせ』


 ふと、目の前の暗がりから飛び込んできた空きテナントが、僕に現在の現実を突きつける。


 このテナントの何代か前の店も、大人になった今にして思えば、結構良い趣味をした当時としては最先端の嗜好品専門店で、あの頃既にシーシャや巻きたばこを扱っていたな。


 まあ、その後は中々大変だったが……


 今の立場からみれば、このショッピングモール自体、人口流出に悩んでいた当該自治体と大手百貨店が高級路線から一般消費者目線に変えてきた事で割を食った総合生活用品店が何とか活路を見出そう、と何とか拵えた物だったのかも知れない。

 そこに入っていたテナントだって、都心部だけでは回収し切れない顧客層を何とか付けようと展開したり、或は出版・CD不況の中何とか第三商材を見出したり、第三の商業形態を摸索していたのだろう。

 みんな「失われた20年」を前にして、当時の大人達がなんとか足掻き、それでも内容は良いモノを次世代に提供しよう、と悪戦苦闘してきた爪痕なんだろうな、とは思う。


 何とか。

 何とか。


 それに比べると、今僕達がやっている「工夫」なんて、なんとみすぼらしいのだろう。

 その「工夫」だって、後1年もしない内に、みんな更地になってしまうのか——


 「本当」なら今頃、僕はここの施設をもっと盛上げていて、結婚もして、子供に「お父さんはここで働いているんだぞ」と自慢していたのに——


 ゆかりとの結婚。

 ゆかりとの子供。


 全て壊れた——


 この施設も。


 みんな壊される——


 こんな時に、ゆかりがそばにいてくれれば——

 あんな事がなければ——


 ゆかり——


 独り、僕の足音だけが静かに響く。


 ガラン、ガラン。


 僕が大学を卒業して入職した頃暫くは、ここも順調だった。

 その頃の僕は児童福祉課で、とにかく仕事を憶えるのに必死で他のデータを見る余裕はなかったが、国際金融ショックの余波の治りと併わさった低金利から新興住宅地域に新築が立ち並び、若い家族が増えていた時期でもあり、それで増えた需要の為、モールも賑わっていた。

 モールの好調は良かったが、そのせいで児童相談の数も増え、ショッピングモールを有する3セクへの出向を希望していた僕もそちらに回される事になった。

 まあ、普通、入職直後から外部団体に出向することはないし、地元とはいえ地域の状況を見る上でも特に不満はなかった。


 一点を除いては。


 ゆかりを失った僕には、その頃増えていた若年核家族の相談も、困ってはいても幸せそうに見え、自分が失ったものを持っている人達のそれが「自慢」にも見えてしまっていた。

 それで辛くなる度、退勤後には2人の思い出のあるショッピングモールに行く事も多かった。

 その頃にはもう車もあり、他の所に行っても良かったのだが、決まって行くのはいつもここだった。


 そこには、いつもゆかりの影があった。


 ゆかりと出会ったのは高校一年の頃だった。

 地元の公立校で出会った。

 特に変わりのない出逢いだ。


 それでも、僕達2人にはそれは特別なものだった。


 放課後のアイスクリーム。

 終業式の後のファミレス。

 夏休みのイベント。


 それ迄は仲間内で騒がしくやっていた事が2人の時間に変わった。

 それ迄は汗も流れるままにしていたが、ゆかりがハンカチで拭いてくれ、そのハンカチをくれたときから、僕もハンカチを持つ様になった。

 あの時拭いてくれた感覚は心地よかった。

 そのハンカチは今でも持ってる。


 花火大会の時、初めて女の人の浴衣を良いと思えた。

 僕も甚兵衛じゃなくて浴衣にすれば良かったと思った。

 その浴衣を見せるとき、ゆかりは何故か腰に手を当てて大きく「えっへん」と言ったのが、浴衣の雰囲気と不釣り合いで、何だかおかしかった。

 花火も、会場に行くより、モールの屋上駐車場の方がよく見えて、ゆかりはそれを僕に教えられた事も嬉しかったらしい。


 カツン、カツン。


 屋上への施錠を確認する。

 花火大会は、今年は無くなってしまった。


 ガラン、ガラン。


 長い二学期、ゆかりが新調したいというので、2人で眼鏡を選びに行く。

 僕はゆかりが好きなのを選ぶのが良いと言ったのに、ゆかりは僕が好きなのを掛けたい、と言う。

 それで、僕が思うゆかりが好きそうな眼鏡を選んだ。

 レンズを作る間に手芸用品点に寄ったが、ゆかりは一通り見た後、多分無理、と言ってその時は何も買わず、他愛も無い話をしたらレンズが付いた眼鏡ができ上がった。

 ゆかりの目が、いつもよりキラキラしてる気がした。


 学期末試験後、ゆかりはなんだがごわごわになったマフラーをくれた。

「やっぱり無理だったんだ……ゴメンネ?」

 でも、そのマフラーはとても暖かかった。

 寧ろ、ゆかりが好きだと言っていたエドワード・ゴーリィの絵本をプレゼントに選んだ自分の方が寒かった。ゆかりが好きなのは、ゴーリィのワニだったのに、僕は『子供達』を選んでしまった。

 慌てて別の物を買おうとしたけど、ゆかりは「それも好きだし、そのお金で一緒に何か食べたい」と言ってくれた。


 カツン、カツン。


 あの眼鏡屋は気が付いたら閉店してしまっていた。

 テナントも埋まらぬままだ。


 ガラン、ガラン。


 このモールの思い出には、ゆかりがいっぱい出てくる。

 皆、キラキラしていた。


 ただ、旅行代理店の有る一角だけは苦手だった。

 いや、今でも苦手だ。

 ゆかりがいなくなった事を思い出させるから。


 都心部の大学に入った最初の夏休み、2人で初めての旅行に海の見える所へ行こう、となった。


 帰省していた僕は、ここで長距離バスのチケットを買い、ここで民宿を予約して、ここで買った水着を持って行った。


 水着は、、お互いに選び合った。


 そして行った先、新しい水着を着た2人で海に入り、ゆかりは沖に流された。

 僕の目の前で。


 離岸流だった。


 僕が掴んだイルカの浮輪から落ちたゆかりは、僕の手をすり抜け、僕が見えない沖に流されてしまった。

 僕は、何もできなかった。

 独りで帰るしかなかった。


 暑い、盆の終わり。


 ゆかりは発見されず、7年後死亡が認定された。

 初盆は一回忌となり、法律上の死亡時に七回忌となった。


 カツン、カツン。


 あの旅行代理店だけは、最後まで残ったんだよなぁ。


 ガラン、ガラン。


 ゆかりを失った僕は、その思い出にしがみつく様に、ここに入る為に公務員試験を受け、入職した。

 それから数年して、ここに出向となった。

 その頃にはもう人口の流出は明白で、撤退するテナントが増え始めた。

 新しかった家族は子供が出て行くと、退職した親だけが残され、その親も介護が必要となり、施設に移る数が増えた。

 介護施設が増えるに反比例して、モールの中のテナントは減って行った。

 その隙間に、介護福祉課の出張事務所を置いたり、民間の文化教室を誘致して、見栄えだけはなんとかしようと腐心した。


 その間にも、ゆかりとの思い出の場所は次々と無くなっていった。

 ここでも、僕は何もできない。

 大切なものがスルスルと僕の手を抜けて行く。


 カツン、カツン。


 独り、僕の足音だけが静かに響く。


 ガラン、ガラン。

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