3-3 「何事も馴れです」
週末となれば、ようやく女子高校生という悩ましき偽りの姿を脱ぎ捨てることが出来る。
だが今日の溜息は昨日とはちょっとばかし趣が違うのだ。
陽が暮れて少し経った頃、オレはこっそりと下宿を抜け出して、行きつけでは無い見知らぬ居酒屋で独り呑んでいた。
大学の周辺ともなれば、その界隈は大抵そこかしこに学生達がたむろしているモノで、オレがたまに利用する居酒屋も、まぁ似たようなものだった。
行けば席の何処かに必ず大学生と思しき客が座っていて、名前も知らぬ顔なじみに会うこともしばしばである。
そもそも、下宿の先輩に教えてもらった店なのだから当然と言えば当然だろう。
別にあの馴染みの店でも良かった。
だが今のオレを知られたくなくて、今夜は普段ならまず足を運ばない下宿から随分と離れた店を選んだ。
ひょっとしたら何かの切っ掛けで、「中身がオレ」だということがバレやしまいかという不安があったからだ。
バレたからいったいどうなのか。
どうにも為りはしないだろうと言われたら確かにその通りで、どうにか為るとは思えない。
でもしかし、どうだと開き直れるほどオレは図太くは無かった。
興味本位に何だかんだと詮索され、噂になるのが怖かった。
他者から注目を浴びることがイヤだった。
普段でも出来る限り目立たないように、平穏穏便にと心がけているのというのに、この有様を知られて周囲から騒がれるのがイヤだった。
小心者、ビビリなのだという自覚はある。
もっと堂々と在りたい、些末なことに動じないようになりたいと思うなどしょっちゅうだ。
だが変えたくとも簡単には変わらないのが人の性格というものである。
「なんでこんな事になっちゃったんだろ」
一息で一杯目の生ビールをジョッキ半分まで飲んだあと、小さく愚痴をこぼした。
これっていったい何度目の台詞だろう。
理由なぞ自分でも痛いほどに分かっちゃ居る。
繰り言を重ねて何かが解決する訳でも無いけれど、それでもやっぱり言いたくなった。
カウンターで呑んでいるものだから、隣の客とは肩が触れ合うほどの距離だった。
ちらちらと真横のサラリーマンと思しき中年男性が盗み見ている視線を感じた。
トイレに立つ男性客の視線もよく突き刺さってくる。
この店に来て半時間とも経っていないというのに結構な注目度合いだ。
若い女性が居酒屋で独り呑みをしている姿というのは、思いの他に目立つものらしい。
ふと視線を落とすと、今も二つの大きな膨らみが強く自己主張をしていた。
これでなかなか肩の凝る重量物件なのである。
とはいえ、迂闊に愚痴をこぼしたら自分の与り知らぬところで敵を作るかもしれない。
だから決して口にはしないけれど。
ひょっとして、目立つのはブラをしていないせいなのだろうか?
シャツの下にはコンビニで買った女性物のタンクトップを着込んではいる。
しかし見るヤツが見れば分かるに違いない。
エロ談義で一家言ある阿呆な友人は、店で呑むといつも周囲の女性を物色して点数なぞを付けていた。
まことに不躾だが同類はきっとそこら中に居るのだろう。
何しろこの界隈は大学という巨大な施設の近郊だ。
日常的に二十歳そこらの若い男衆大放出バーゲンセール中なのである。
物色するなという方が無茶。
一方的に見られる側はたまったもんじゃなかろうな、と思っていたから、友人を窘めながら自分は出来る限りそんな真似はしないように心がけていた。
だがよもやまさか、自分が見られる側になろうとは。
全く以て世の中は不条理で満ち満ちている。
そんな訳でオレはまた溜息をつくのだ。
「初めてのお客さんですよね」
店の大将がそう言いながら枝豆を出してくれた。
小皿だがお通しはもう出ている。
「あの、頼んでないですけれど」
「初見のお客さんにはサービスで一皿お出ししてるんです。どうぞ」
有り難くソレを受け取るとまた一口生を喉に流した。
のど越しと胃の腑に落ちる冷たい液体の感触がたまらなかった。
周囲の客が時折無遠慮だけれども、居酒屋のこの猥雑さが好きだった。
春先で、確かにこの頃昼間の気温は高いが陽が落ちれば相応に気温も下がる。
だが今日一日イヤになるくらい様々な種類の汗をかいていて、到底呑まずには居られない気分だった。
あんなコトをまだまだ続けなけりゃならんのかな。
どうしようもない汗をかいた後のどうしようもない疲労と、どうしようもない気分でどうしようもない溜息をついた。
何だかこのところ溜息をついてばっかりだ。
あんなコトとは本日昼間の一件である。
今日は土曜日。
本来ならば休日である筈なのに、何故か再びニュートさんの用意したトレーニングルームで様々な練習をする羽目になった。
普段は練習する暇などありませんからね、というのが彼女の言い分。
確かにポーズだの決め台詞など習得や、決定していない必殺技の選定など諸々の課題が手付かずのままだった。
「本業に差し
言い分はいちいち尤もだが、休日まで返上して挑まねばならぬほど逼迫しているのだろうか。
そもそも本業とは何ぞや。
それは正義の味方である。
女子高校生に化けるのは仕事上必要な条件の一つでしかなくて、本来の目的では無い。
彼女に言われて初めて、そういやそうだったと手を叩いたオレは相当に脳みそが緩んでいたようだ。
外見のみならず頭の中身までJK色に染まりつつあるのでは、などという空恐ろしい懸念が脳裏を掠めたのだが、ソレは遙か遠方に蹴り飛ばした。
そしてただうっかりしていただけだと、何度も自分自身に言い聞かせた。
まったく縁起でもない。
本日修練の大部分はポーズの習得であった。
それはもう子細様々なシチュエーションとバリエーションがあって、何も知らない自分が出来る限度を軽く超えていた。
しかも同時進行的にポーズに付帯する台詞も憶えなきゃならない。
正直地獄かと思った。
「全てを几帳面に丸暗記する必要は無いのですよ。その場のフィーリングに沿った力強い感情の発露があれば九割がた何とかなります」
ニュートさんは軽く言ってくれるけれど、そのフィーリングだの何だのってオレが一番苦手とする部分なんだよなぁ。
「参考までに聞くけれど、アイドルの歌だの振り付けだのってもこんなにシンドイの?」
「正義の味方の台詞とポージングはテンプレートで、一通り習得すれば後はアドリブで何とか為りますけれど、アイドルの場合は一曲毎に全部バラバラですからね。
しかも歌に合わせるリズム感覚も必要になってきますし、難易度は段違いです」
成る程良く判った。
二重の意味でオレにはムリである。絶対である。
何事をこなすにも壁だのハードルだのは存在するのだろうが、何故よりにもよってオレの前に立ちはだかるのは斯様な無理難題なのか。
人前に立って話すだけでも、ビビって舌がもつれる有様だというのに。
「何事も馴れです」と彼女は云い、参考資料だと幾つかのDVDを手渡してきた。
パッケージは赤だの黄色だのの原色がそこかしこにちりばめられていて、見ているだけで目が痛くなってきそうだ。
煽り文句が登場人物の周囲で踊っている。
カタカナにまでふりがなが振ってあるせいで、かえって読みづらい。
その中央で子供向けの戦隊ヒーローだの、国民的なタイトル背負った正義の味方だのがカラフルな題字と共に大仰なポーズを決めていた。
何処をどう見ても小学生低学年近辺をターゲットとした代物である。
コレを見ろと?
「現時点に於いて最高の資料です。
お気に召したポーズや台詞があれば、それを模倣するのも手です。
コードに引っ掛かってしまいますので、業務となればご主人様専用の様式で行なって頂く必要がありますが」
手本とするのならば最低でも一つは視聴せねばなるまい。
トレーニングルームの外ではコレからの引用は出来ないわけで、早々にコツを掴む必要があった。
そして当然自分専用のポーズと台詞も決めて練習しなければならなかった。
やらなきゃならないコトは山盛りてんこ盛り。
モタモタしている暇は無いというコトである。
手元のビデオソフトをじっと眺め、オレはまた深い溜息をついたのだ。
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