第三幕 不埒な者ども

3-1 小さく舌打ちをした

 放課後になった。


 部活動のある生徒たちはそれぞれにそれぞれの所属する活動の場へと向かい、そうではない生徒たちは三々五々に家路に着いた。

 お陰で校舎の中は唐突にがらんとした空間になる。

 先程までの喧噪が嘘のような物寂しさだ。


「この唐突さもまた一興ですねぇ」


 芳田芳子はそうほくそ笑みながら、いそいそと帰り支度を始めた。

 今日はこれからちょっとしたお楽しみが待っている。

 先日ちょっと趣味の良い喫茶店を見つけた。

 そこであの新しい後輩の子、桜ヶ丘桜子さんと二人っきりでお茶をする約束を取り付けているのだ。


 この学校に通う、ごく普通の女の子達も可愛いが、やはり同じ境遇同じ秘密を共有する者同士、気負いや気兼ねなど無く語り合える相手というのは貴重である。

 互いに胸襟を開き組んず解れつ、もとい、膝を交えつつ語り合う濃密な時間は何物にも代えがたいご馳走であると云えよう。


 教室の中にはもう誰も居ない。

 つい先程まで一緒に帰りましょう、と熱心に誘いかけてくる同級生は「用事が在るから」と丁寧に断り、何とか先に帰すことが出来た。

 きっと途中でカラオケボックスなり、ファストフードのチェーン店なりに寄り道するのであろう。

 そしてあわよくば、と下心が見え見えだ。

 仕草や言葉選びなどからすぐ知れる。


 確かにソレも悪くはない。

 悪くはないが今日は駄目だ。

 そんなコトをされたら折角の放課後デート、もとい、二人っきりの業務連絡がおじゃんになってしまうではないか。


 普段から授業が終わった途端、いそいそと脇目も振らずに帰る彼女をようやく掴まえ、どうにかこうにか説得することが出来たのだ。

 生真面目というか律儀というか、融通が利かないというか。

 ま、ソコが良いところではあるのだけれども。


 仕事とはいえ、こうして女子高校生を演じる数少ないチャンスなのだ、少しくらいはそれを堪能してもバチは当たるまい。


 いや違うな。

 これは未知の領域であるホンモノのJKを、身をもって実践する業務研究なのだ。

 実技を伴った調査であるのだから何を取りつくろう必要があろう。


 そう、コレは重大な仕事案件なのである。

 しかも実験試用段階であるのだから、ちょっとばかし何かのアヤマチがあったりなんかするかもしれない。

 しかし仮にそうなったとしても仕方が無いことではないのか?


 泣いちゃったりなんかしたら勿論全力で謝るが、ソコは元男の子。

 どうにかなることがあっても、何とかなっちゃったりするのではなかろうか。


 いや、あくまで希望的観測、もとい、あり得るかもしれない可能性の世界なのである。

 落ち着け、落ち着くんだわたし。

 これから大事なミッションだというのに何を焦っている。

 此処で急いて事を仕損じる訳にはいかないわ。


 大きく二回深呼吸をする。込み上げてくる生唾を必死になって堪え、芳田芳子は「さて」と呟いて立ち上がった。


 あれ?


 不意に違和感を感じた。


 誰も居ない筈の教室なのに何某かの気配があった。

 ぐるりと頭を巡らして周囲を見回した。

 やはり人気は無い。

 無いのだが「在る」という感触は消えなかった。


「誰?ソコに居るわね」


 目の前の机の上にコツンと何かが当たった音がした。

 いや当たったのではない、卓上に何かが乗ったのだ。

 だがやはり何も見えなかった。

 だけれども何かが居るという実感は更に濃くなった。


「ひょっとして、ニュートラルグレーさんかしら」


「流石、現役の正義の味方ですね。何故お分かりに?」


 何も無い筈の場所から声だけは聞こえた。

 姿は相変わらず見えないが、耳を澄ませばその小さな靴が、机の天板をじわりと踏み換える音が聞こえる気がした。


「勘としか言いようがありません。以前にも言わなかったでしょうか」


「確かに。

 勘と言うと呆れる方もいらっしゃいますが、私は決して軽々に扱ってよいモノとは考えてはおりません。

 五感を駆使した緻密な観察と、積み重ねられた様々な経験則からくる考察。

 そして未来予測とが合わさって導き出される、極めて高度な判断力だと思っています。

 それが些かの逡巡も無く、瞬時に導き出される様は驚嘆の一言。

 ですので、改めて『何故に』とお聞きしているのです。

 見つけられた理由が分かれば、このステルスモードも更にブラッシュアップさせることが出来ますので」


「相変わらず仕事熱心ですねぇ」


「役目ですから。故にお聞きしたいのです。何故に放課後、ご主人様を喫茶店にお誘いになられているのですか」


「仕事に必要な業務連絡と情報交換です。人目は無い方が宜しいでしょう」


「確かに。しかし期間限定のドーナツケーキの当日券とハウス珈琲の割引券を、後輩の方を拝み倒し譲り受けてまで準備せねばならない程のコトであろうか。そう思いもします」


 はっとして自分の鞄に手を添えた。

 そう言えばあのチケットは此処に入っているのだろうか。

 五限目の休憩時間にそっと出して確認したことまでは憶えているが、その後は入れっぱなしのままだった。


「心配せずとも鞄から抜き取るなどと、そんな不躾なことは致しません。それよりも」


 声が、すいと移動して肩に軽く重みが加わった。

 そして不意に虚空から二〇センチほどの背丈の、手入れの行き届いたスーツを着込んだ一人の女性が姿を現した。


「あなたの悪い癖がまたぞろ目を覚ましたのではないかと、ソレばかりが心配になりましてね」


 口元が笑っていた。

 極めて柔らかな微笑みだ。

 だが目はまるで笑っていなかった。


「気の回しすぎですわ。同じ轍を何度も踏むほどわたしは愚かではありません」


「なら宜しいのですけれども。

 無関係な少女に手を出すよりも、同門同類の関係者ならば社会的倫理の束縛もない。

 そんな不埒な思いつきで己の欲望を満足させようとしてはいないか。

 そんな不安を抱いたのですが、ただの杞憂であったという事ですね」


「も、勿論よ。彼女はわたしの大切な後輩ですもの。

 無下にしたり立場を利用して某かを強要したりなどしませんわ。

 それは純然たる不義、パワハラというものです。

 わたしが準ずる正義とは相容れないものですわ」


「それを聞いて安心しました。

 それと杞憂ついでの老婆心で申し上げますが、ご主人様はストレートです。

 真っ当な性情の持ち主ですので、妙な嗜好をふりかけないようお願い致します」


「妙なとは何よ。わたしの趣味はわたしのモノだわ」


「別に否定している訳では無いのですよ。ただ、ご主人様をその道に引き込まないで下さいと、そう申し上げて居るのですよ」


 瞬きの無い瞳がずいと寄せられてきた。

 自分の肩の上に居る相手を見つめているものだから首筋が痛い。

 そしてその彼女は片手で掴めるほどに小さな身体だというのに、並みの男性など容易く圧するだけの迫力があった。


 やれやれ。


 取られたく無いのでしたら、そうおっしゃれば宜しいのに。


「何か?」


「いえ、何も」


「ご主人様が校門の所でお持ちです。私は先に行きますが、お早くいらしてくださいね」


 ニュートラルグレーはぴょんと床の上に飛び降りると、再びその姿をかき消した。

 そしてそのまま彼女の気配も瞬く間に消えていった。

 じっと息を殺してみても、グラウンドの辺りから部活動に興じる生徒たちの歓声が微かに聞こえてくるだけである。


 芳田芳子は小さく舌打ちをし、溜息をついた。


「やっぱり彼女が最大の難関になっちゃったわねぇ」


 予想していたとはいえ、こうもハッキリと釘を刺されるとは思っていなかった。


 まぁ焦らず地道に積み重ねてゆくことにしましょう。


 そう決めると気持ちを切り替え、彼女もまた教室を後にした。

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