第一幕 契約(その四)

 まぁいい、取り敢えずそれは一先ず置いておいておこう。悩み過ぎて頭が痛くなってきたからちょっと休憩だ。

 それよりも今のオレは重大な難関に直面していた。それは人間以前、生き物としての宿命。根本的生理的欲求を如何にして解決するかという、逃れられぬ難苦に直面していたのである。

 それは小一時間前から徐々に募っていた。そしてそれを必死になって堪えていた。だが別に我慢大会に興じている訳でもなければ、己を窮地に追い込み、脂汗を流す苦しみに快感の境地を求めている訳でもなかった。

 オレはマゾでは無いのである。

 今はもう頭の先から爪先まで、完全完璧容赦なく非の打ち所のない女性のオレが、のこのこと此処の共同トイレを使うのは相当に勇気が必要である。そして下宿民との邂逅は絶対回避というこの高難易度。控えめに言っても、かなりの分量の幸運を願わねばならない。

 確かに明文化こそされては居ないものの、実質この下宿は女人の出入りを禁じている。盛りのついた野郎ばかりの所に若い女性が一人で入り込むなど、何処からどう眺めてみても無茶無謀。素直に暴挙と言えよう。理性と公序良俗をちょっと脇に置いた、いかがわしさ満点なシチュエーションだ。

 下宿という集合宿舎を預かる者としては極めて常識的な判断である。

 そんな中、オレの部屋から若い女性が出入りする瞬間を目撃されようものなら、どんな惨事が待っていることか。

 少しだけドアを開いてそっと顔を出し、今一度念入りに辺りを伺った。脂汗がじわりと滲む。

 うん、誰も居ないな。

 ちょっと前までコチラの都合を微塵も考えず、学食のカレーが最近味薄いなどと、ちんたら立ち話をしていたタワケ者が居たがもう姿は見えなかった。

 よし、今がチャンス。タオル被って俯いて腕組みでこの大きな胸を覆い隠し、早足で行けば何とか為りそうだ。呼び止められさえされなければ問題あるまい。下腹部はもう臨界ぎりぎりバクハツ寸前なのだ。

 行くぞ。

 意を決し、オレはドアの外に出た。

 で、だ。

 何故にお前がソコに居る。

 ドアを出た途端に出会したのはオレの巨大な友人、塚原だった。

「おう具合はどうだ。飯食ってないかもしれんと思って食い物持って来てやって来たぞ」

 デカイ声出すんじゃねぇ。オレは今とっても忙しいし目立ちたくもねぇんだ!

 何事かとドアを開け、自分の部屋からコチラを伺うヤツまで居る。

 冗談じゃないと思った。もはや一刻どこか寸瞬の猶予も無いというのに!

 タオルを頭から被ったまま「トイレ」と一言呟いて目的の場所に駆け込んだ。まさに一目散。

 速攻で鍵をかけて即座に下着を下ろし、渇望の極にあった便座へ神速の域で腰を下ろすと宿願であった開放を促した。

「はぁっ」

 思わず頬が緩んで熱い吐息が漏れた。

 おお、素晴らしきかな。この平穏。

 水音と湯気と臭気と共に、安息と至福とがこの身を満たしてゆく。

 嗚呼この全てを解き放つ恍惚と愉悦よ。

 我が存在意義すら覆しかねない危険。我が身が引き裂けんばかりの苦悶とから脱した後に、オレは狭い個室の中で大きな安堵の吐息を吐き出すのである。

 やがて至高の一時が終焉した。

 そしてオレは再び悩んだ。

 コレからどうしたものだろう。

 十分に見計らって外に出たつもりだったのに、何故次の瞬間目の前に出現しているのか。確かにオレの部屋は二階へ出入りする階段のすぐ脇にあって、ドアの死角に為り易くはあるけれど。

 ヤツは瞬間移動でも出来るのか。実はニンジャの末裔で隠形の術でも体得しているのか。

 あの様子じゃあ、オレの部屋に上がり込んで待ってるんだろうなぁ。

 顔を突き合わせていなければ、具合が悪いからとドア越しに追い返すことが出来たものを。

 溜息を吐き出しながら、随分と長い間便座の上で悩んだ。

 たとい今日を何とか誤魔化して凌いだとしても、根本的な解決にはなっていなかった。

 そもそも、この先どうするのかという話である。この下宿での生活は勿論、学校での日常もある。授業にだって出なきゃならないし、試験だってそうだ。解決しなきゃならないことは山ほどあって、どうにもこうにもオレ一人の手には余る事態だった。協力者はあった方が良い。

 こんな所で考えていても始まらない。トイレ一つでこの有様なのだ。答えなど最初から出ているのである。ただ、決心が着かなかったというだけで。

「仕方が無いな」

 オレは意を決すると水を流して手を洗い、トイレのドアを開けた。そして自分の部屋に戻っていった。


「ふーん、ほー、へー、なあるほど。それではあなたが田口章介その人だと、そうおっしゃる訳ですな」

 折角こっちが今世紀最大級の決意をもって全てを打ち明けたというのに、ヤツは何処か空とぼけた表情で無感情な感想を口にするだけだった。

「あの、信じてもらえてる?」

「はいはい信じてます信じてます。章介のヤツがメールのフィッシング詐欺に引っ掛かって女性に変身してあなたが当人だと、そういう訳ですね。それで章介のヤツは何処に?」

 この野郎全然信じてねぇ。だがしかしこうやって、真っ向から問い返されると実にイカガワシイ説明ではあるな。

「いやそうじゃなくてだね、此処に居るこのオレが田口章介本人なんだってば。まぁ簡単に信じられないのは判るけど」

「そう言えと云われている訳ですか、いやぁあなたも大変ですね。でも気を悪くしないで下さい、ヤツは時々頓痴気なコトやらかしますが根は至って真面目なヤツなんです。

 しかし友達甲斐の無い。下宿に彼女を連れ込んだのならそう言えば良いものを。あなたにこんな珍妙な小芝居打たせるなどどういうつもりなんでしょうね。黙っておけと一言云えばそれで済む話だというのに。そんなに俺を信用出来ないのかと言いたいですよ。ねぇ」

 オイこら何故同意を求める。それに信用云々などとソレはオレの台詞だよ、友達甲斐の無いヤツめ。この懇切丁寧な状況説明を信じられないのか、この唐変木。

 しかしヤツの反応もむべなるかな、普通の人間なら至極真っ当な対応なんだろう。逆の立場だったらオレもヤツと同じ事を言ったかもしれん。

 どうしたものかと頭を抱えた。

 しばらく悩んで、仕方が無いと溜息をつく。此処はムリに納得させるよりもソレっぽい誤魔化しで取り繕った方が吉。ワタシという架空の彼女が、居場所が無いゆえ転がり込んでいるということにして、コイツの協力を仰ぐ方が賢明かもしれなかった。

 甚だ不本意ではあるけれど!

「ほほう、成る程。では章介はこの部屋をあなたに貸して、どっか別のツレの所に潜り込んでいるという訳ですね。律儀なヤツめ。邪魔立てなどしないし、行く場所無いなら俺の部屋でも良かったろうに。いやでも子細了解です。協力は惜しみませんよ」

 虚構で塗り固めた説明を終えるとヤツはそう言って豪快に笑った。どちくしょう、と思った。

 しかしまぁ今日の所はこれで良しとしておくか。問題は色々と残っちゃいるが、今は目の前にあるモノを一つずつ片付けてゆくしかない。嘘っぽい事実よりも、本当っぽい嘘の方が信じてもらえる。それが世の常、人の常というもののようだ。

 何という理不尽。

 しかしその時、オレは気付いていなかった。人の口に戸は立てられないという残酷な現実があるということを。そして身につまされたのは、壁に耳あり障子に目ありの格言であった。

 ん?コレって格言だったっけ。まぁいい問題はソコじゃない。大事なのは他者の好奇心というものは止めどなく、水面下で虚実入り乱れ驚くべき勢いで拡がっていくという事実なのである。

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