第31話 反撃

 中海に現れた巨大な馬は、以前、天喜あまき伐折羅ばさらの叔父のザールに騙され、紅の花園の厩舎に閉じ込められたゴットフリーが、”闇馬刀”で首を切り落としたはずのあやかしの馬だったのだ。


 忘れることなんてできるものか! あの時、白妖馬の首跡から噴き上がる血飛沫と、吐きだす紅の花園の香にまみれて、ゴットフリーは”闇の王”へと変貌してしまったんだ。そいつがまた、この修羅場に姿を現すなんて!


 視点を定めることができず、ゴットフリーの瞳の虹彩が不安定に震えている。

 ジャンは、今にも倒れそうな彼を支えながら空を睨みつけた。こちらをせせら笑っているような声が聞こえたからだ。


 ― 我、闇の王を誘えり

   闇に誘えり ―


 畜生! 姿は見えないのに、アイアリスのオーラがそこらここらに沸き立ってやがる。

 こんなことで、せっかく光の世界に戻ってきたゴットフリーの精神こころをかき乱されてたまるもんか!


「ゴットフリー、余計なことは何も考えるな。”闇”に心を向けるんじゃないぞ。お前が今、いるべき場所は、ここ! 僕たちの光の側なんだから!」


「ちっ、不味い、不味すぎるぜ。こんな先手の取られ方をするなんてよ」


 悲壮な声をあげたスカーにも、ゴットフリーは答えることができない。

 すると、彼を支えていたジャンが堪らず声を荒らげたのだ。


「ゴットフリー、お前らしくもない。何をぐずついているんだよ! 闇の王が不在であっても、光の女神の助けがなくても、お前の能力ちからは闇にも光にも届くはず。ちょっとくらい暴走してしまっても、闇と光の手綱は伐折羅と僕が取る。だから、気に入らぬ輩はすべて潰してしまえよっ。それが二つの世界を架ける者 ―― お前の特権なんだから!」


 その言葉に、ゴットフリーははっと顔を上げ、ジャンに問いかけるような視線を向けた。


 気に入らぬ輩は全部潰しまえばいい……


 本当にそれで、いい……のか。


 にこりと彼に微笑んだ少年の表情は陽光のように明るく、一片の迷いもない。


「うん。全然、構わないよ! だから、やりたいことをやってしまえ。お前は滅ぼせ。僕が守る! それが僕らの規則ルールだろ」


 とたんに、黒衣の男の灰色の瞳に研ぎ澄まされた光が戻ってきた。


 そう、それが俺たちの規則ルールだった……な。


 ゴットフリーは、ジャンに支えられていた手を振り払うと中海へ歩を進めた。まだ、左足には麻痺が残っていたが足取りはしっかりしていた。


「ジャン、アイアリスとうみ鬼灯ほおずきは後回しだ。何をおいても俺が今一番気に入らぬのは、涼しい顔をしてここに現れた、あの白妖馬だ!」


 おもむろに手前に手を差し出し、己の愛刀の名を呼ぶ。


闇馬刀やみばとう!」


 彼の手の中に光と共に現われた黒刀の剣。

 漆黒の刀身には、闇の世界と光の世界を繋ぐ一本の光の道が煌いている。

 二つの世界のどちらへ遣るかは、持ちゴットフリーの意思次第。


 黒刀の剣を目前で真一文字に構える。そして、ゴットフリーは、


「白妖馬! お前が逝くのは地獄の厩舎。俺がそう決め、そう命じたのを忘れたのか!」


 鋭く光る切っ先を、白毛の馬の首を目指して振り抜いたのだ。


 白い首が、宙に弾き飛んだ。

 馬の首元から夥しい鮮血が吹き上がる。

 再び繰り返された、かつてと同じ場面。


 そうよ、毒香の血を浴びて、

 ゴットフリー、早く闇にいらっしゃい。


 闇に誘えり。

 闇に……。


 思う壺だと、けたたましく笑う女神アイアリスの声が空に木霊した。

 

 噴き上がった鮮血が黒衣の男に注いでくる。……が、


「させるか!」


 彼の後ろで炸裂した蒼の光が、その色を一瞬に消し去ったのだ。


「今はゴットフリーの傍には僕がいる!」


 とび色の瞳を持つ少年ジャンが、手のひらから迸らせた強大な力を背中に感じて、ゴットフリーは低く笑い声をたてた。

 そして、消えてゆく白妖馬を斜めに見据え、闇馬刀の切っ先を次の照準へと向けた。

 鋭い灰色の瞳が標的ターゲットを捉える。その視線が向けられたのは、中海の空と海の間に不自然に浮かび上がった空間の歪みにだった。

 その秘密を嗅ぎつけられた瞬間に、中海の沖に留まっていた海の鬼灯がぶわりと空に浮かび上がった。


「そこか、女神アイアリスの隠れ家は!」


 空から紅の灯が鎌鼬かまいたちの刃を向けてくる。

 だが、ゴットフリーはそんなものは無視だとばかりに、空間の歪みの中央に一直線に闇馬刀を突き立た。渾身の力をこめて刃を振り上げる。


 逆巻く気流と溢れる剣気が上空で練りあい、風と風が重なり、音と音が共鳴する。


 ―  その残響が生み出した真空  ―


「アアアアアッ!!」


 上段から宙を一刀両断に切り裂く。

 開かれた異次元への扉。


 その奥の白い光の中に飛び込んでゆこうとするゴットフリーをジャンは慌てて追いかけた。もう、彼の姿を見失ってしまうのはこりごりだった。

 その瞬間、二人の上に、紅の灯の鎌鼬かまいたちの風がぐわんと急降下してきた。


「――!」


 咄嗟に手のひらを広げ、ジャンは蒼の光で鎌鼬の風を凍りつかせる。

 ゴットフリーは、頭上でいとも簡単に動きを封じられた紅の灯にさもあらんと笑った。

 ジャンが持つのは生命を育む大地の力、たとえ攻撃はできなくとも、無碍むげに命を刈り取る邪心の紅よりもはるかに力強い。


「ジャン、付いてこい! あの怪物たちを後で操っているアイアリスをこちらの世界に引きずり出しにゆくぞ」


「了解!」


 ジャンは、一つ返事でそう答えてから、海岸から駆けて来る巨漢の男に、大声で叫んだ。


「タルク! 悪いけど、後は頼んだ!」 


 そう言った瞬間に、ひらりと体を翻し、ジャンはゴットフリーの後を追って空間の裂け目に飛び込んで行ってしまった。


「おおい、こら! そんな簡単に任せられてもっ!」


「蒼の光を残してゆくから!」


 少年の声に呼応し、背中の鞘に収められたタルクの長剣が、蒼の光の残滓を纏い始めていた。

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