第86話 黒馬と闇の戦士
「畜生! 馬なんて一頭も残っちゃいねぇ」
兵士が残していった馬を奪って、西の丘へ向かおうとしたスカーは、王宮の中庭で愕然と辺りを見渡した。
ジャンが砂粒に変えたキャリバンたちが去った後の中庭は荒れ果て、瓦礫と砂粒が混じり合った、からからに乾燥した風が吹くばかりだ。自分以外にまともな生き物がいるとは思えない。おまけに、王宮の向こうから獣の遠吠えに似た不気味な声が響いてくる。
戦場にたった一人、取り残されてしまったような圧倒的な不安。
ぞくりと悪寒が背中を通り抜け、スカーは、形振り構わず王宮の出口に向かって駆け出した。
怪物の
見上げた空には、おびただしい数の紅蓮の炎が瀑布のように、主を失くした虚無の王宮に流れ込んでゆく。
白い鳥に乗って王宮へ向かったジャンは、どうしちまったんだ? それに、ラピスとココは、白蛇から無事に逃げることができたのか?
止めどのない不安。けれども、
「とにかく、俺が今やるべきは、西の丘に逃げていった王女たちと合流することだ!」
スカーは必死の思いで王宮の出口へ向かった。だが、妙な違和感に足もとに視線を落とした瞬間、
「な、何なんだ、これは……?」
地面から溢れ出した緑の蔦が、彼の両足を捕えていた。それらが足首から膝へと這いのぼってくる。すると、足に絡まる蔦の先に小さな蕾が芽生えだした。緑のがくから浮き出してきた血玉のような紅い蕾。
甘い香りを放ちながら、それらが大きく膨らんだ時、スカーは、がくんとその場に膝をついた。
ゆらゆらと揺れるようなおかしな感覚が頭の中に湧き上がってくる。
くそっ、騙されるな! こんな物は幻に過ぎないんだ。
けれども、顔をあげた彼の前に広がった光景は……
生々しいほどに咲き乱れる、一面の紅の花園。
「……」
スカーは地面に膝をついたまま、その光景を眺めていた。すると、次々と数を増やした紅の花々が、醜く顔を歪めた兵士たちに姿を変えてゆくではないか。
血色の軍服を身にまとった
「うわぁああああ!!」
気が狂ってしまいそうな光景の中で、スカーは足に絡まる緑の蔦を護身用のナイフで引き剥がそうとした。
……が、一人の兵士の視線が、その姿をとらえてしまったのだ。
充血した瞳の兵士の槍が自分を狙いすましている。それに気づいたスカーは、死に物狂いで持っていた手榴弾を兵士に向かって投げつけた。
「お願いだから、消えてくれ!こんな寒気のする光景は、もう沢山だ!」
白煙の中に紅の花が散らばり、一瞬、視界が閉ざされる。
その時、スカーの襟元を黒い影が掠めていった。
頬に飛び散る生暖かい感触。もともとあった頬の傷をゆがめながら、不審げにそれを手で拭い取る。すると、
「血……だ」
痛みは少しも感じられない……ということは……スカーは、足元に倒れこんできた紅の兵士に恐る恐る視線を向けた。
まさか、こいつら……生身の人間なのか?
先ほど通り過ぎていった黒い影は、いつの間にか消えうせていたが、足元で息絶えている兵士は一撃にその影に急所を突かれたようだった。一瞬、黙考してから、きりと唇を噛みしめ、スカーは受入れたくない事実を胸に刻み込んだ。
「この軍隊は、王妃に操られたエターナル城を守っていた生身の兵士たちと、紅の花の幻影の兵士が混ざり合って編成されているんだ。そして、俺たちが闇雲にこいつらを攻撃すれば、生身の兵士までが命を失うって寸法か!」
そんなことになれば、もっと多くの血が流れる。そして、人の心に後悔と憎しみの感情が生まれる。
それこそが、紅の邪気”
「畜生っ! これも海の鬼灯に仕掛けられた罠だったのか!」
その時、東の空に暗黒のような靄が湧き上がった。
漆黒の闇が、東から徐々に紅に染まった空を飲み込んでゆく。
おぞましやかに聳え立つエターナル城を分かれ目にして、グラン・パープルの空は、漆黒と紅の二つの色にくっきりと東西に分けられていった。
獣のような遠吠えが響いてくる。スカーは恐怖に耐えかねて、両の耳をふさごうとした。……が、
ひずめの音……
不思議な気分で、その方向に顔を向けてみると、紅の灯を捕らえようとしている闇色の雲の一角がゆらりと揺れた。
「何だ……あれは」
スカーは、その暗黒の闇に一筋の光を見た。そして、そのはるか先から何かが道をやって来る …… 黒い点のようなものが 、速度を増しながらこちらの方向へ……
「黒い馬だ! 黒馬が闇の中を駆けて来る!」
空を駆け下りてくる漆黒の馬。
それが自分のすぐ手前までやって来た時、スカーは、黒馬の背で手綱をとる黒装束の男に唖然と視線をむけた。
「ゴットフリー……」
その黒髪は、陽光が当たる程に色を変える。日が翳ろえば漆黒に、そして、晒されれば紅の色に。
エターナル城の上空を二分して占拠している漆黒と紅。だが、今の彼の髪色は
「闇の王……」
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