第1話 黒い島

 レインボーヘブン、それはこの世の富をすべて集めた至福の島。だが、五百年もの昔、その島は突然、海に消えた。レインボーヘブンの守護神アイアリスは、その島を七つの欠片に分け、そして封印したのだ。遥か未来、住民たちの子孫にレインボーヘブンを返す約束を残して。

 レインボーヘブンの伝説にはこう記されている。


 − レインボーヘブンは再び蘇る。七つの欠片たちが力を取り戻し、その血を受継いだ住民たちが、その地を訪れた時に……また蘇る -


* * *


 やわらかな風が東から吹いていた。

 朝の陽光に照らされた一隻の船。その船首で、ゴットフリーは海を眺めていた。

 

 波の間に目新しい魚の群れが飛びはねる度、銀の鱗が反射鏡のようにきらめいて見える。ゴットフリーの鋼のように黒い髪が、それに合わせるかのように紅く輝く。そう、この男の髪は陽光にさらされると、紅に色を変える。

 そのせいか、20歳そこそこの若さにもかかわらず、ゴットフリーの周りには抗いがたい大気のようなものが取巻いていた。

 ほんの少し前まで、彼はこの海の遥か西、ガルフ島の警護隊隊長として島の権力を欲しいがままにしてきたのだ。

 だが、船首で海を眺めるその表情は硬く、精彩を放つとはいい難いものだった。


 ガルフ島を出航して1ヶ月……あの日食が起こるその前に、俺がこの見知らぬ海にいる事を誰が想像しただろう? 崩壊……ガルフ島は、崩壊したのだ。わずかに残る大地を残して。


 ゴットフリーは目前に広がる東の空に目をやった。晩夏から初秋へ向かおうとしている、澄んだ青い空。だが、目を凝らして見つめていると、その灰色の瞳の中には、鮮やかな七色の光が滲むように浮かび上がってくる。


 虹の道標


 至福の島、レインボーヘブンへの道標。この虹の終わる場所にレインボーヘブンがあるという。

 だが、それは、強い海風にあおられた波しぶきを避け目を閉じた瞬間、彼の視界から消えてしまった。

 ゴットフリーは、不思議な感覚に目を瞬たかせた。だが、もう、虹の道標は現れてはこなかった。


「ま~た、あの虹を眺めていたのか」


 後ろから声をかけられて、ゴットフリーは、むっとして振り返った。小麦色の髪、とび色の瞳。彼とはまるで対照的な人なつこい笑顔の少年がそこに立っていた。


「いや……今はもう見えない」

「ふぅん、人間の目って不便だな」


 少年の名はジャン。


「お前は……」

と、言いかけてゴットフリーは言葉を飲みこむように黙りこんだ。ジャンは笑う。


「まぁ、心配すんな。たとえ、夜の闇の中でも僕があの道標を見失うことなんてないんだから」

「お前には、夜でも、あの虹が見えるというのか」

「だって、お前が生きている限りあれは輝き続けると、女神アイアリスは言ったじゃないか」


 ジャンの言葉にゴットフリーは、眉をひそめた。


 あの女……レインボーヘブンの守護神アイアリスは言った。俺にレインボーヘブンの王になれと。


「誰が心配などするか」

「そっか? なら、いいけど」


 また海風が強く吹きつけてきた。船が大きく揺れた時、ジャンはふらりと隣にいるゴットフリーの腕につかまった。


「おい、何だ?」


 ゴットフリーは、いぶかしげにジャンを見やった。見かけは15〜6歳の少年でも、ジャンには強靭な力が宿っている。自らをレインボーヘブンの大地、アイアリスに隠された欠片――しかも、そのいしずえなのだと言う。― その少年が船の揺れごときに足をとられるものだろうか。

 だが、ジャンは彼の腕をつかんだまま、動くことができなかった。


「おい」


 ゴットフリーは、とまどいながら両の手でジャンの体をぐいと引き起こそうとした。ところが


 こいつ、体が熱い


 ジャンは耐えきれず、その場にがくんと膝をつく。


「ジャン!」

「黒馬島が……近づいてくる」

「何だって?」

「黒馬島に……行って」


 だが、次の言葉を言い終わらないうちに、少年はゴットフリーの腕の中に倒れこみ、それきり意識を失ってしまった。


 その時、二人の上に黒い影が覆いかぶさってきた。船の速度にあわすようにゆっくりと上空から伸びてくる巨大な影法師。ゴットフリーは、ジャンを抱えたまま唖然と空を仰ぎ見た。


 黒い地層……船の上に突然現れた、こぼれおちそうな断崖の屋根。その表面には砂岩と泥岩の筋が波のように続いている。だが、礫も砂もすべてが炭化した鉱物であるかのように光を吸収し、その地を黒に染めていた。


 黒い大地…… まさか、これが黒馬島!? だが、どこから現れた? 海には島など一つだって見えなかったぞ。


 そして、船は吸い込まれるように、断崖の下に広がる入り江の奥へと入り込んでいった。


* * *


 がっしりとした体を小さく折り曲げて、タルクは、ベッドに横たわったジャンの顔を覗きこんだ。


「リュカ、こいつは一体、どうなっちまったんだ。ガルフ島を出る時は、小憎らしいほど元気だったのに」


 タルクは、腑におちない様子でベッドの傍らにいる少女、リュカの顔を見た。


「ジャンは、本当にお人好し……ガルフ島に力を与えすぎたのよ。もっと残しておけば良かった……自分の為に」


 リュカは独り言のようにつぶやいた。そして、くすりと笑った。


「笑っている場合か! 偶然だが船は入り江に入っちまった。島には医者くらいいるだろう。なら、早く医者に診せた方がいい。絶対に!」

「怒鳴らないでよ。船を下りれば、いいだけの話。海にいちゃ、ジャンの力だってもどってこない」


 リュカは不満そうに目元にかかった銀の巻毛をかきあげた。銀といっても髪はぼさぼさでお世辞にも美しいとはいえない。なぜ、彼女がジャンと共にいるのかは謎のままだったが、リュカはジャンより少し年下に見えた。女の子にしては、身なりに気を使う事もなく、顔も服装も薄汚れていた。ただ、その瞳は澄みきった青。それだけが妙に人の心をひきつけた。


「……で、俺たちにどうしろというんだ」


 後ろから聞こえてきた声に振りむき、リュカは、かすかに眉をひそめる。

 それは、船首から下に降りてきたゴットフリーだった。


「こいつは、倒れる前に黒馬島へ行けと言った。この黒い大地が黒馬島なのか。そこにいったい何があるんだ」

「黒馬島にはジャンの友達がいる」

「友達、こいつに?」

「そう……前に会ったのは確か」


 リュカは、小声でぽつりとつぶやいた。


「そう、前に会ったのは……100年前だったかな」


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