生き残り、旅立つ


 

 その女の名は、沙夜さよという。

 皇雅国こうがのくにという国の端に位置する、小さな名も無き村に住んでいる。

 

 厳しい自然に囲まれたそんな山あいの村にとって、『皇都』は無関係な遠い場所でしかない。

 たとえ国の中枢で何かが起こったとて、こんな田舎には何の影響もない……と誰もが思っていた、これまでは。

 


「ああ、またやられた」

「くそ、結界縄しめなわはまだ届かんのか!」

「役人も来る途中でやられてるんだろうさ」

「逃げてるやつらもいるだろ。こんな小さな村、見捨てられる」


 村の男たちが、毎日のように騒いでいるのには、訳があった。

 

 皇帝が不在になると、国宝である『まもり刀』の力がなくなり、国中に『あやかし』が放たれてしまう。

 そしてもしもその、恐ろしくて強い存在に運悪く出会ってしまったなら……普通の人間はなすすべなく食われるしかない。その証拠に、『皇帝が身罷みまかられた』というしらせが届いてからの毎日、夜が明けるたびに、村には血の臭いが漂っている。

 

 皇雅こうがの民が皇帝を神様のようにあがたてまつり、どれだけ生活が苦しかろうと、税を納めるのだけは怠らなかった訳が、ようやく分かった――沙夜がそんなことを思いながら、ぼうっと眺めているのは、村にある近所の家だ。


 風で巻き上がる長い黒髪が顔を覆っても、微動だにせず彼女はその場所に立っている。その華奢な肩を、通り過ぎる大人たちがぽん、ぽん、と陰鬱な表情で叩いていくのは、慰めか諦めか、またはその両方だろう。

 

 ――昨日まで、元気な赤子の泣き声がしていたはずのこの家は、朝になるとしんと静まり返っていた。

 

 村の男たちは、暗黙の了解とばかりに無言で集まったかと思うと、粗末な木戸を乱暴にこじ開け無断でドカドカと中へ入り――口々に「ひでぇ」「むごい」などと漏らしながらも、凄惨せいさんな遺体を見せないようにして運び出し、とむらった。


 恐怖と、悲しみ。不安と焦燥は、人々の精神を徐々にさいなんでいく。

 ついには畑仕事も家事も放り投げ、木を組んだだけのあばら家に引きこもってしまう。そんな者が、増え続けている。


 

 ――雨が降るわけでもないのに、じめりとした空気が肌にまとわりつく。

 

 

「ねえ、ばあば。あたしらも食われちゃうのかな」

「……沙夜さよ。そのお守りを離したらいかんよ」

 

 夜に備えて自分の家に戻った沙夜が尋ねても、ばあばと呼ばれた老婆は問いには答えず、左手首を指さした。白と黒で複雑に編まれた組紐くみひもが巻かれているが、由来は教えてくれていない。


「っ、分かってる」

 

 沙夜の両親は、いない。

 

 物心ついた時から、十七になろうとしているこれまで、と二人暮らしをしてきた。女ふたりでは何かと物騒な世の中だが、『玖狼くろう』が番犬としていつも寄り添ってくれている。


「わんっ!」


 黒い毛の大型犬で、男性が近づくとえて威嚇いかくしてくれる、頼りになる存在だ。

 

 近所の畑を手伝って、その日の食料を恵んでもらう。

 子供の世話や食事の用意、洗濯などをして、お駄賃をもらう。

 そんな貧乏暮らしでも、一日の終わりに縫い物を教わりながら、玖狼とともに囲炉裏いろりでくつろぐ時間は、沙夜にとってかけがえのないものだ。その証拠に、このような状況にあっても、一緒にいるだけで安心できる。


 パチパチと炭の中の空気が弾けて、火の粉が飛ぶ。


 ばあばが、今度はおもむろに囲炉裏の灰を指さす。ふるふると細かく震える彼女の指先を、沙夜は黙って目で追った――手の甲のしわには、自分を養ってくれた年月と苦労が刻まれているようで、温かくも胸が苦しくなる。


「もしあたしに何かあったら、その中に」

「え?」

 

 

 ガタン!


 

「ああ、来てしまわれた」

「ばあば?」

「沙夜。目を閉じておいで」

「え、なに」

「ええから、ばあばの胸におり。目を開けたらいかん」

「おん、おん」

 

 たちまち沙夜は、老婆とは思えない強い力で二の腕を掴まれ、引かれ、腕の中に閉じ込められる。その両眼は、袖で塞がれる。自分の方が強いはずなのに、振りほどけない。驚いて抵抗を試みたが


「しっ。動いたら食われる」

 

 その言葉によって、沙夜の抵抗は封じられた。おまけに、体の上にのしかかる玖狼はどっしりと重い。


「よいこは、ねんねこ。ねんころり。まよいあやかし、はよかえり。めいのもんは、とじかけり。るりのまもりにゃかなわんて」


 いつも聞かせてくれる子守歌で耳も塞がれ、毎日の習慣のせいか、沙夜はあっという間に眠りに落ちた。

 

 

 ――翌朝。手の中には、破れた着物の一部だけが残っていた。



 うっすらと窓枠から漏れる、日の光に照らされる粗末な木の床には、どす黒い血だまりがある。

 

 しん、と音のない朝は、非現実的だった。



「っ……」


 

 あまりの静寂に、沙夜の背筋にぞわりと冷たいものが走った。

 何かに駆り立てられるかのように、飛び起きて家の木戸をガタガタと開け、外に裸足のまま走り出た。足裏に小石が刺さるが、麻痺しているのか気にならない。



「っぐ」


 

 すぐに腕を持ち上げて、袖で鼻を塞ぐ沙夜の眼前に広がるのは、惨劇のあとに違いなかった。

 

 鉄臭い。何かが焦げる匂い。灰色の煙がくすぶって立ちのぼる家が、目の前だけでも何軒かある。囲炉裏の炭から飛び火したか――


 

 カア、カア、と一羽の烏が鳴いている。

 沙夜はひとり、呆然と立っている。

 


 カア、カア。カア、カア。

 



「あぁ……」

 

 

 

 村が、丸ごと食われている。

 もうここには、自分の他には烏しかいない。


 


「ああぁ……」


 

 どうしようもない絶望感の中、ばあばの声が脳内に響いた。

 


『もしあたしに何かあったら、その中に』

「っ!」



 ダダダと家の中にとって返し、囲炉裏の灰の中に無我夢中で手を突っ込む。白い灰が舞い上がり、視界を塞がれたので、手の感覚だけで中を掘り探った。


「あっつ!」


 思わず手を引っ込めたところに、黒犬が戸口から走り込んで来た。

 

「おん、おん!」

「玖狼! 生きてた! 良かったーっ!」


 やけどをしたかもしれないが、愛犬が生きていたことが嬉しくて、痛みを忘れた。


「喜んでる場合じゃなくてっ、あのね、ここ、ばあばが指さしてたでしょ? ゴホッゴホッ、うえっ」


 舞い上がる灰にむせつつも手を突っ込むと、指先に何か固いモノが当たった。まさぐり、夢中で掴み、持ち上げる。


「ゴホッゴホッ、んんん……箱?」



 ごん、と固い箱を床に置く。両手でようやく持ち上げられるぐらいの重さで、手のひら二つ分の大きさ。

 手と袖で周りの灰を雑に払ってから、恐る恐る蓋を押し上げると、中には金貨が数枚と折り畳まれた紙が入っていた。


「紙?」

 

 そっと広げると、二枚重なっている。最後まで中身に目を走らせると、沙夜は決意と共に顔を上げた。



「……皇都へ行け、って」



 小さな田舎の山村に住む娘が、文字を読める。

 そのに沙夜はまだ、気づいていなかった。


 唯一の肉親がのこした道しるべに、従うしかできなかったから。

 

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