第2話

ふと何かを忘れてしまっている事に気づく。

思い出そうとすると歩くペースが無意識に遅くなってしまった。


なんだったかな?


玄関の鍵は閉めたしスマホも財布もポケットに収まっている。

何を忘れてしまったのか頭の中で記憶を呼び戻そうとフル回転させていたら近所に住んでいる、いつも無愛想なおばさんが大きなゴミ袋を持って前から歩いてきた。


春が訪れて心地良い朝を迎えたというのに相変わらず、不機嫌な表情をしている。


近くにいたカラスを追っ払いゴミを集積所に放り込んでいる。


俺は無愛想なおばさんに近寄りたくないので歩くペースを更に遅くした。

おばさんがズボン越しにお尻をボリボリ掻きながらゴミ集積所を立ち去った瞬間、忘れていたものに気づく。


そうだ今日は生ゴミの日だった。

思い出せて良かった、おばさんが生ゴミが入ったゴミ袋を持って捨てにきたことで思い出せた。


これも全てあの無愛想なおばさんのおかげだ。おばさんに感謝すべきだ。


いやいや、それは違う。あのおばさんのおかげではない。自分の脳みそが頑張ったんだ。

自分の脳みそを褒めるべきでおばさんを評価する必要はない、おばさんはたまたまゴミ袋を持って歩いていたに過ぎない。感謝するのはよそう。


スマホで時刻を見たらまだ時間に余裕がある。

いつも乗車する時刻には間に合わないけれど遅刻することはない。

少し面倒ではあるが俺は生ゴミを捨てる為に自宅に戻った。


自宅アパート付近の角を左に曲がろうとしたら例の2人組と出会い頭に遭遇した。

2人組はそのまま直進したので恐らく俺に気付いていないはずだ。


ニューヨーク・ヤンキースのニューエラを被った小柄な男は首を下げスマホを触り続けながら金髪のツーブロック男の話を聞きつつ時折り相槌をうっている。


金髪のツーブロック男は歩きタバコだった。タバコを吸い煙を口から吐いた後「あの女、出て来なかったけど302号室で間違いないな」と話しかけているのを俺は聞いた。

そのまま2人組は路上に止めてあった黒のワンボックスカーに乗った。

金髪のツーブロック男は運転席に座らずドアを開けたまま中腰で乗り込み何やらゴソゴソとやっている。

すぐに車から出てきて灰皿に入った大量のタバコの吸い殻を花壇に撒き散らしている。

さっきまで口に咥えていたタバコもひと口吸ったあと他の吸い殻と同じように花壇に捨てた。

火さえ消していない。


この辺では定期的に町内会の活動で花壇の整備が行われている。

俺には花の名前は分からなかったが色とりどりの花を見ると心が和んだ。

どこの町内でもみかける至って普通の花壇だけれど無機質な沿道を飾ってくれている事は確かだ。

子ども達も手伝いをしていて真新しい軍手をしながら物珍しそうにしていた。


金髪のツーブロック男には罪悪感なんて微塵もないだろう。

彼はどこでも同じ事をしているはずだ。

たまたま今回は俺の近所の花壇だったというだけだ。

助手席に座っているニューヨーク・ヤンキースのニューエラを被った小柄な男はスマホばかり触っている。


花壇に捨てられた大量のタバコの吸い殻に気づいているのかいないのか分からない。


コイツが金髪のツーブロック男を注意する事はないだろう、そもそもこんな男に期待する方がバカだと思う。


2人組は車を発進させてどこかへ行った。

朝から嫌なものを見たなと思い自宅へ向かう。

自宅アパート付近の緩やかな坂を上がる時、綺麗な花を見て心が和んだ事を思い出した。

この花壇に花を植えた人達は汚された花壇を見たらきっと悲しむはずだ。

それなら奴らに汚された事さえ知らないうちに俺が代わりに片付けておこう。

そんな善意ある感情が自然と湧きあがった。

春の暖かさと花を植えた人達が俺をそうさせたのかもしれない。


突如、そんな考えをぶっ壊すかのように2人組の顔が、特に金髪のツーブロック男が俺の頭の中で浮かんできた。

あの金髪のツーブロック男と階段ですれ違った際、俺にした鋭い目つき。

悪意に溢れ、人を威嚇した態度。

大量の吸い殻を花壇にぶちまけた時の歪んだ表情。

俺はこんな奴らがしでかした事の為に自分の時間と労力を消費しなきゃならないのか。


奴のパシリとして尻拭いをする為に俺は存在するわけではないだろう。

今頃、奴らは車内でくだらない話をしながらゲラゲラ笑っているのではないかと想像したら、とてつもない怒りが込み上げてきた。

代わりに俺が掃除をするなんてふざけるな。

心を和ます花、その花壇を作った人々よりあの2人組に対する怒りが勝ってしまい、善意なんて消え失せた。


自宅玄関に着いて鍵を開けて真っ暗な部屋に入りゴミ袋を結わえてドタドタ足音を鳴らしすぐ表へ出た。

302号室を通りがかり母子の玄関ドアを横目で見る。俺は小さな声で「あんたの仲間はクソ野郎だ」と呟いた。


生ゴミが入った袋を手に持ち階段を駆け降りる。

ゴミ集積所にたどり着くと生ゴミをいつもより強く放り投げた。

まだ怒りは収まってはいない。

これを負の連鎖とでも言うのだろうか?

こないだ職場にいる高橋に理不尽な事で怒鳴られた事をうかつにも思い出す。


毎度、理不尽な事で高橋に怒鳴られているとはいえ、その日はいつもより気が滅入ってしまっていた。

帰宅途中の電車の中でも自宅に着いても高橋の顔が頭から離れない。


座った目、怒鳴り声、逆ギレばかりを繰り返すクソみたいなおっさんがずっと頭の中で居座り続けていた。


夜になってベッドに潜り込んで眠ろうにも高橋の件が忘れられずスマホを握りネット空間に助けを求めた。


アレコレ検索すると、有名な精神科医が嫌な記憶の対処法についてQ&A方式で説明しているサイトを発見した。


彼の話によれば忘れたい記憶は無理をして忘れようとするとかえって記憶に定着してしまうらしい。

忘れようとせず他の事を考え、気を紛らすように努める事が重要との事だった。


これといった打開策があるわけでもないから、その日の夜から俺はこの方法を活用する事にしたんだ。


危ない、危ない。今朝から例の腹ただしい2人組のせいでネガティヴになり高橋を思い出してしまった。

せっかく、待ちに待った春。こいつらなんかに台無しにされてたまるか。

ネットで調べた通り、他の事を考えなきゃ、それも楽しい事を…。


改札を過ぎ、いつもとは違う顔ぶれの中ホームで電車が到着するのを待っていた。

楽しい事を思い浮かべ気を紛らわそうとしていたものの、同時に今朝捨て忘れた生ゴミのように嫌な記憶なんて簡単に忘れられたら精神科医が教えてくれた対処法なんて実践しなくていいのに、と思ってしまった。

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