異界にて、風にふるれば
利仲こころ
第1話 プロロオグ
二〇二三年九月一日、時刻五時半。
「ありがとうございました!」
部活が終わり、陸上部のみんなと一緒にトラックに向けて挨拶をした。今日は自主練なだけあって五人しか来なかった。5人更衣室に向かい帰りの支度をしていると、
「ねぇね みんな、これから海行くんだけど…いっしょに行く人!はい!!」
元気よく腕を上げ、みんなに促している。着替えを終えてシーソーのように椅子を揺らしていた
「いいね~今日もしようぜ、アイスじゃんけん」
「もうアイスって時期じゃないでしょ、ジュースよジュース賭けよ?」
「わたしパスするわ~今日は家手伝わんと」
菜緒は
「アゲハはどうする?一緒に行かない?」と誘ってくれたが、
「ごめん!今日はおばあちゃん帰ってくるから また今度」
アゲハは片付けながらそう断った。今日はおばあちゃんが退院する日なのだ。先に家に帰り、退院祝いの準備をしたいようだ。
アゲハは「また明日!」と声をかけてから、みんなより一足先に競技場を出た。高校二年の秋は、昨年とは比べ物にならないほど練習に気合が入っているようだった。
「今シーズンラスト…記録残さないと」
そんなことをつぶやきながら、自宅に向けて足を進めた。正確にはアゲハのおばあちゃんの家だが、それも今や彼女の帰るべき家の一つだ。
アゲハの家は山を挟んだ先の住宅地にある。競技場からは十五分のところにあり、十分に歩いていけるほどの距離である。学校の方がむしろ家からは遠いのだが、部活で朝練するとき丁度いいからと、そんな理由で進んだ学校なのだ。そう、アゲハは陸上をするために今の高校にやって来たのだ。
しばらく歩きレンコン畑に入ったあたりで、パラパラと雨の降る音が聞こえ始めた。蓮の葉の雨をはじく音が次第に強くなっていく。
「雨?今日降る予報だったっけ」
「でも」
「晴雨、晴れの雨 狐の嫁入りだ♪」
アゲハは傘を持っていなかったが、そんなことは気にしていなかった。練習を終え火照ったアゲハの身体にはむしろ心地よく、ただその恵みを受け入れるかのように軽快な足取りとなった。それは次第にスキップに変わった。
「♪~~~~♪」
次第に大きくなってゆくカエルの合唱に、参加するようにいつの間にか鼻歌さえ口ずさんでいた。夕焼け色に染まった世界に、音楽と、雨のにおいが修飾された。
だが、通り雨だったらしくすぐに雨は止んでしまった。それに合わせるようにカエルの声は小さくなり、アゲハもスキップから歩みに変わってしまった。今あった世界は一瞬のうちに変化し、変わらない雨のにおいがその世界を証明してくれる。
やがて赤くさびれた鳥居の前に着いた。鳥居の先には山に沿うようにして直線の石畳が見える。アゲハがいつも通る神社に辿り着いた。時刻五時四十分。
この神社を抜ければ自宅へはすぐだ。アゲハにしては珍しく、神社の鳥居の前で一礼してから参道を進んでいった。参道は神社の本殿を手前に左右に分かれていて、それぞれの参道は左右が土の壁に挟まれている。まっすぐ進めば隣の町に辿り着く。
これまた珍しい、今日はお参りすることに決めていたようだ、右手にある本殿を無視することなく神社の正面に向き合った。置かれている案内を確認し(二礼して二拍して一礼…)、胸の内で願いを唱えた。
参拝が終わって顔を上げたとき、ふと背後から鈴の音が聞こえた。振り返ると黒い猫が背後を通った。普通の猫より若干大きい猫だった。それだけなら驚きはしなかっただろうが、背中を向けたその猫のしっぽは、四つに分かれていたのだ。
「ちょっと待って!」思わずアゲハは声に出して呼び止めようとした。
その猫はアゲハを気にも留めず先に進み、そしてあるところで止まった。いつもは通らない神社正面の参道である。猫は右側の土の壁を見ているようで、遠くからでもその壁から光が零れ出ているのがわかった。
「何を見ているの?」
アゲハがそーっと黒猫の後ろにかがんで同じところを見ようとした、その瞬間。地面が大きく揺らいだ。スマホから耳障りな警告音が鳴り響く。時刻五時四二分。
『地震です 地震です』『地震です 地震です』
「地震⁉」
動揺したのもつかの間、アゲハはすぐさまその場にしゃがみ込み、姿勢を低くした。こういうとき、昔からアゲハはひどく冷静に行動することができていた。猫は体を震わせ、動揺しているように目をキョロキョロと動かしていた。アゲハは猫を抱えて地震が過ぎ去るのを待つことにした。急いで猫を抱き寄せる。
さらに地震はその揺れの勢いを増していった。時刻五時四三分。
光り輝く壁は地震が強くなるにつれて、その輝きが増しているように感じた。そして、太陽のように光が赤く輝いた瞬間、まるで吸い込まれるかのようにアゲハの身体が光の方へ引き寄せられていく。地震はさらにその勢いを増してゆく。それに合わせるように、身体を引く力も次第に大きくなってゆく。
「誰か!誰か助けて‼」
それに応じられる者がいる訳もなく、遂にはアゲハと猫は光の中へ取り込まれていってしまった。時刻五時四四分。以上、記録留め。
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