021 > 受験までのカウントダウン(その4)ー 事後処理


 予備校のトイレで事を済ませた辰樹は、すぐさまスマホで岩清水に連絡を取った。

 直次郎の匂いを嗅いでから頭が冴え渡っていたのに、吐精すると同時に意識が朦朧もうろうとし始めてきたからだ。


 緊急SOSで予備校の裏手に呼び出された岩清水は、車高が低く黒い車の助手席ドアにもたれ、胸ポケットからタバコを取り出そうとした。

 そのときだ。辰樹と、辰樹の肩を担いでこちらに向かってくる男子生徒の姿が見えたのは。


 酩酊めいていしてるような状態の辰樹は足元もおぼつかないくらい、ふらふらしていた。

 岩清水は無言で辰樹と本人のリュックを直次郎から受け取ると、ベンツの後部座席に押し込んだ。横たわった辰樹はもうピクリとも動かなかった。


「名前を聞いても?」

「え、は、はい。北野直次郎、って言います」


 この時の直次郎は極度の緊張状態にあった。


 辰樹が大会社の御曹司であることを知ってはいても、辰樹に指示されて連れて行った先に、真っ黒いスモークガラス張りの黒塗りベンツが待機していたことには驚いた。

 呼び出されたであろう男は顔にあるドデカいきずを隠しもしない黒服オールバックで、辰樹以上の巨漢だったからだ。しかも、掠れた声は地を這うように低い。


「あ、あの、滝川は大丈夫なんですか?」

「……心配ない……君は……」


 目をすがめて直次郎を見返す。

 Ωのヒートだ。しかも、辰樹のヒートは半径50m内に影響を及ぼすくらい酷い。だからこそ、ヒートの周期をスケジューリングして常に家に引きこもる。周期がほぼ確実であり、1日もズレがないためにそういうことが可能なのだが、今回のヒートはおかしかった。


 辰樹のヒートにはβでさえその匂いに気づいて性衝動に突き動かされたような行動に出る。それなのに、岩清水には、目の前にいるごくごく平凡な、辰樹よりも小さい茶髪の男子高校生が、なんの違和感も感じていないように見えた。


「β……なのかな?」


 ヤクザ然とした強面の巨漢に急に話しかけられ直次郎はビクッと反応したが


「はい……」


 その男の視線に何か探るようなものを感じて唾を飲み込んだ。


「礼を言う。辰樹の……」

「友人です」


 間髪入れずに直次郎は言った。

 ここで自分達の関係性を探られるのは不味い気がする、と先の辰樹の言葉から推測した直次郎の直感が訴えていた。



 ────



 今から数分前。


 事が済んだ瞬間、辰樹は酔ったような足取りで直次郎から退いた。

 トイレに移動する時もネックカバーで自分の首元を覆っていたくらいだから、おそらく直次郎が感じないだけでヒート特有の匂いを撒き散らしているのかもしれない。それを考えると、慎重に辰樹を運び出す必要があったからだ。


『あと10分もしないうちに、迎えが来る。……直次郎、頼む……何もなかったように……振る舞ってくれ……』


 辰樹は、大切に取ってあった童貞を奪われて茫然自失になっている直次郎に声をかけた。

 ネックカバーだけでなく用意周到に持っていたタオルを濡らし、体を──特に直次郎が放ったものを丁寧に掻き出して──匂い消しでもしているかのように拭き始め、辰樹自身は何事もなかったかのように服の前ボタンを閉め直した。


 そしてその濡れタオルをそこにあった石鹸で泡立てて洗うと『すまん。俺が使ったやつだけど、お前もこれで……』と、直次郎に渡した。

 その行動と先の言葉には、痕跡を拭い去ってほしい、という無言の要望が込められていた。

 意図を汲み取った直次郎は頷き、辰樹と同様に体を拭いて着衣を整える。


『これだけで気づかれなくなるとは思わんが……やらないよりマシだろ……』


 視線が定まらない辰樹がボソッと呟いたが、その言葉は直次郎には届いていなかった。その代わり直次郎は


『明日、話せるか?』

『なにが?』

『さっきのこと……』


 釈明を求めたくて聞いたのだが、当の辰樹は


『すまん、頭が回ってない……説明なら……ヒートが……明けてから、で……いいか?』


 また予備校に来なくなると予言した。ヒートで外に出られない、という意思表示だ。


『まさか……9月初めの休みって……』

『……また来週の…………週末に、な……』


 それ以上、会話は続かなかった。

 辰樹のスマホに着信が来たからだ。


 事後処理をし終え、力が抜けてしまった辰樹を一回り小柄な直次郎がここまで連れてくるのは本当に骨が折れた。



 ────



 辰樹を乗せたベンツが夜の闇に消えていくのを見送った直次郎は、一抹の不安を感じていた。


(滝川は……『何もなかったように振る舞ってくれ』って言ってた。なんだ? そもそもアレって……)


 混乱したままの直次郎を置いてベンツは滝川邸に向かう。


 一方、助手席に座った岩清水は後部座席で力なく横たわる辰樹を見ながら


(8月の半ばにも1度……おかしなタイミングで軽いヒートがあった、と言っていたな……)


 少しの違和感を感じていた。


 将来自分のつがいになるから辰樹の体調を気遣う、というわけではない。

 岩清水にとって辰樹はこれからの立身出世のための最高のこまだ。


 滝信りょうしん会会長・滝川康樹の実の息子でありながら、他の兄弟とは全く違う処遇に晒されている辰樹自身を、不憫に思うことはあっても、そこにつがいやパートナー、恋愛としての情は欠片もなかった。


 そもそも、岩清水には数年前、刑務所に入る直前から連れ添っている女性がいる。

 それを知っていて辰樹をてがおうとしている康樹を、彼自身はよく思っていなかった。


『アレを妻として迎えるか、愛人にするか、そのどちらでも良い。とにかくはら


 自分の息子をアレ呼ばわりする親にろくな人間はいないと思っているが、それでも岩清水が辰樹の扱いに情けを見せたことはない。


 そんな通常のΩのような──か弱い存在という──扱いをすることこそ、辰樹自身が最も望んでいないだろうと、岩清水は知っていたからだ。


 スマホを手に取った岩清水は、横にいるガスマスクを装着している運転手の花澤はなざわに目を配りながら


「大至急、家から出ろ。あと10分もしないうちに着く」


 地響きがするような低い声で、向かっている家の人払いを命じた。





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