014 > 夏休み終了後・辰樹(その3)ー 『シャケツの儀』


 滑り出した全長6メートルを超える黒いリムジンが森に向かう。先ほど乗っていたベンツとは別の車だが、乗っているメンバーは先ほどと同じ。


 夜も10時を過ぎると森の中は漆黒の闇に包まれるが、今夜は巨大な満月が宙空に浮かび木々の隙間から月明かりが漏れているためか、薄明るい。


 舗装された道は一本だけで、若干曲がりくねりながら森の奥へと誘う。空に向かってまっすぐに立ち上がる大きな杉やけやきといった樹々を抜けながら車を走らせると、やがて涼しげな空気が流れ出す林に入る。

 折り重なるように優雅な風靡ふうびを作る竹林はその奥に禍々まがまがしい何かをたずさえていた。




 10歳の誕生日の直前にヒートが始まって以来、辰樹は月に一度のヒート期間中、自分の記憶の一切を無くす症状に悩まされていた。

 ヒート中のΩの意識がなくなる、あるいは軽い記憶喪失症状があるというのはそれほど珍しいことではなかったが、ヒート期の5日間、全く記憶がないという症例は珍しいと言われていた。


 その珍しい症状を見せる辰樹のヒートの頻度は高校に上がる頃から徐々に減り、今では三ヶ月に一度で安定している。だが頻度が減った代わりなのか、ヒートになっている状態での記憶が少しずつ思い出せるようになっていた。


 そして、それ以上に。


 意識がある分、子宮がうずく自分を自覚してどうしようもない状況に陥っている。

 腹の奥が疼く自分を自覚する度に辰樹は、惨めで情けなくて最悪な気分になる。

 それをしずめる方法は本来、一つしかない。


 自らの胎に男を受け入れ、昂りを得ること。


 だが、それだけはどうしても嫌だった。


 だから、代わりに女を抱く。

 それもただの一度として同じ女ではない、プロの女だ。


 そして、また──ヒートの時に制御できない自分に恐怖が芽生え始めていた。


(俺も……最後はああなるんだろうか……)


『今日はだそうです』


 先ほどエントランスで岩清水に告げられた言葉。

 その1人のために、今日は『託宣たくせん』が行われるということだ。


『託宣』の儀式は、辰樹がヒートになる直前に行われるのが常であった。


 その方が、辰樹の父・滝川康樹にとって都合がよかったからに他ならない。そして、父の思惑に薄々気づきながらも自分自身で確たる証拠を突き出せないため、辰樹は動けずにいた。


 だが。

 2週間前、一つの呪いが解けた。


 あといくつ自分に呪いがかかっているのか、それを考えるだけで気が重く、毎朝の目覚めが悪い。

 予備校に行くという状況がなければ、夏休みの後半を屍のように過ごしていたに違いない、と自分でも思っていた。




「着きました」


 言われて到着したのは、『やしろ』と呼ばれた場所。


 おごそかな空気が漂うそこは、普通の神社とは様相が異なっていた。

 直径2メートルの紅い柱を持つ5メートルほどの高さの鳥居が9つ、つらなるように続いており、その奥に建物──神殿──があった。


 拝殿はいでんとなる部分はなく、本殿のみで構成されており、その神殿の高さはゆうに30メートルを超えている。

 中に入る前に、すでに外からも聞こえるほどけたたましい叫び声が聞こえてきた。


 その絶叫を聞きながら岩清水が右手でオールバックを撫でつけつつ辰樹に話しかける。


「『シャケツの儀』をり行い次第、すぐに始めるそうです」

「……」


 神殿の内部に入ると、ヒノキの香りが強く、ほの明るい。


 開かれた扉を岩清水と2人でくぐるとそこには──


 両手両足にかせをかまされ、長い鎖に繋がれ、顔面がよだれまみれになり、なお暴れているうごめいていた。


「ゴろセ……もう……ごロ、してクれ……」


 その姿はもはや人間のそれではない。

 四肢を持っている形状こそ人間の形を取るものの、大きく肥大し、ありえないほど体が膨張している。それは人間の体の筋肉を極限まで膨らませた異様な姿だった。


 檜造ひのきづくりの神殿によって入ってきた時は気づかなかったが、その生き物から腐臭が漂っている。


 上半身は裸、下半身は──破れたのだろう。スーツが切れ端のようにぶら下がっていた。

 相貌はすでに醜悪な何かの塊状になっている。目だった部分も、鼻だった部分も潰れたように崩れ落ちてよく見えず、顎から垂れる涎で口だった部分の位置がわかるだけ。人間の顔面としての形状を保っていない。


「遅かったな、辰樹」


 声をかけたのは呼び出した本人、滝川康樹こうきだ。


 60手前であるにも関わらず、壮健そうけんそのものの出立ちであり鋭い目と鍛え上げられた肉体。その年にしてはかなりの高身長である180センチ、体重78キロと、辰樹の骨格はまさしくこの父親譲りのものである。

 極上の生地であることが一目でわかる艶のあるスリーピースの真っ黒いスーツを着ている康樹の身体は、細身だが中に引き締まった筋肉をまとっていることを組織の人間なら誰でも知っていた。


「また逃げ出したのかと思ったぞ」

「……1回だけです」

「1回も100回も私には変わらん」


 康樹は無言で顎をしゃくると、両手に装着していた黒色のハーフグローブを外し、ドス黒い液体が滴るそれを放り投げる。片膝をついて側に付き従っていたいかつい体つきをした丸坊主の男から真新しい別のものを受け取り、パチ、と音を立ててはめた。

 ゴキゴキと康樹が指の関節を鳴らし、その、男だったモノの左首のけい動脈に触れる。


 ガシャガシャと手足を揺らして鎖を鳴らすが、その抵抗はおそらく最早もはや最小限のものだろう。失禁したのか涎なのかもよくわからない液体が床をしとどに濡らしており、抵抗の跡が見えた。


 そしてまた、丸坊主の男から何かを受け取る。


 注射器だ。

 針が、通常のものより太く、押し子が付いておらず、そのまま──丸坊主男が両手で捧げ持っている──大きな血液バッグに繋がっている。


 康樹は男の頭らしき部分を左手で捕まえて固定すると、ぶつり、とその頸動脈に躊躇ちゅうちょなく針を突き刺した。

 またたく間に血液バッグの中に真っ赤な液体が溜まっていく。


 そのバッグが赤く染まっていくのを眺めながら康樹は後ろにいる辰樹に話しかけた。


「辰樹、『託宣たくせん』はいつも通りに。それはお前の仕事だ」


 辰樹は無言で頷くと、抵抗する気も失せたその男だったモノを見る。

 はもはや動くこともせず、ただ黙ってされるがままだ。


 人は1リットルの血液が体外に流れ出れば死ぬ。その血液バッグは特注のもので容量が5,000ccあり、バッグに満ちるほどになれば死ぬのは必然である。だが、まだ生きていた。


 意識が朦朧もうろうとしてきたのだろう。その生きモノからうめき声も聞こえなくなった頃、ようやく康樹は注射針を引き抜いた。


 ぷしゅっ!と一瞬だけ血柱が上がり、康樹の右袖を濡らす。だが、すぐにおさまった。すでに血液はその体にそれほど残っていない。


 『瀉血しゃけつの儀』はここで終了し、これから『託宣』が始まる。


「思ったより少ないな。まぁ、いい」


 満ち足りるほど血液バッグが膨らまなかったことに不満げな声を漏らした康樹が血に濡れた右手と袖を振り払い、注射器を、血液バッグを抱えている坊主頭に渡す。


 神殿内で沈黙の中、滝川康樹の所業を見守っているのはその場にいる五人だけ。

 辰樹と岩清水、付き添ってきた花澤、康樹に付き従ってる坊主頭、そして、その後ろに


「康樹様でしたら辰樹さんの力を借りなくても如何様いかようにでもできますのに」

だ」


 正式な神主かんぬしの格好をした恰幅かっぷくの良い男がいた。

 康樹のめつけるような視線と声音に威圧を感じた神主は小さくため息を吐くと


「あいわかりました。では『託宣たくせん』をはじめましょうかね」








※瀉血(しゃけつ):人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法の一つ。現在の瀉血は限定的な症状の治療に用いられるのみである。

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