第10話

 つばめは病気だった。

 生まれてからずっと病院の中で、自由を制限されて。あの狭いベッドの上だけが、彼女の世界そのものだった。

「……そっか。だから、あんなにいろんなところに行きたがったのか」

 だからこんなに細くて白いのか……。

「律と結婚して幸せになる予定だったのにさ、狂っちゃったなーって思ってたんだけど」

 結花はそう言って、一旦ふうっと息を吐いた。

 そして、笑顔で言った。

「私のおかげで五年も長く生きられたって、ありがとうって言ってもらえたんだ。私、全然死ぬつもりなんてなかったけど、つばめちゃんにそう言われたときは、なんだかすごく嬉しかったの」


 結花はつばめの体を優しく抱き締めている。俺は、かける言葉が見つからなかった。


「だからね、律。私の心残りはあなただけなの。律がいつまで経っても前を見てくれないから、それどころか死のうとさえしてるから、喝を入れに来たのよ」

「喝?」

「いい加減、私のことなんか忘れなさい。もう五年よ? 律ったらどんだけ私のこと好きなのよ。まったく、気持ち悪いわ」

「き……気持ち悪い!?」

 突然の暴言に、ぎょっとした。

「このままウジウジしていられるのは困るの。私が安心して成仏できないわ」


 そう言って、仁王立ちする結花。すべてが懐かしくて、どうしようもなく愛おしい。涙が込み上げた。


「……じゃあ、困るなら帰ってきてよ……」


 情けない本音が漏れる。無茶なことだし、一番言ってはいけないことだと分かっていても、口に出さずにはいられなかった。

 だって、現に今、五年間恋焦がれ続けた彼女は目の前にいるのだから。


「……律」

 優しくて、甘い声。諭すように、俺を呼ぶ。分かってる。奇跡はそんなに長くは続かない。でも、心がついていかないのだから仕方ない。


「だって、忘れられるわけないだろ。ずっとずっと大好きなんだ。愛してるんだ。ほかの誰かじゃダメなんだよ……」


 みっともなく涙をぽろぽろと零しながら、俺は制服を着た結花に縋り付く。


「泣かないでよ……私はずっとそばにいるよ。だからもう、怖がらないでいいんだよ、律」

 俺は子供のように、ぶんぶんと首を横に振った。

「怖いよ。結花がいないと怖い。生きているのさえ苦しいんだ」

「そんなこと言わないで」

 結花は子供をあやすように言う。

「俺にはなにもないんだよ。結花がいなきゃ、俺は生きてる意味なんてないんだ」

 俺は、結花がいなきゃなにもできない。なにもやる気にならない。

「そんなことないって。つばめちゃんのお願いを叶えてあげたのは、律だよ。律のおかげでつばめちゃんは知らない経験をたくさんできた」


 結花の声は震えていた。

 涙を拭って顔を上げる。見ると、彼女も涙を流していた。ぽろぽろと透明な雫を流しながら、

「ね、律。今度は私と約束して」

「約束?」


 結花の小さな指の腹が俺の頬を優しく撫で、涙を拭った。


「私のこと、完全に忘れてとはもう言わない。でも、私のことはできるかぎり忘れてほしいの。恋をして、新しいその彼女と観覧車に乗って、カラオケ行って、海に行って、結婚して、家族を作って幸せになってよ」


 くしゃくしゃに泣きながらそう言う結花は、とびきり美しかった。懐かしくて、よく分からない感情があふれ出す。

 これまでの想いを吐き出すように、俺は泣きながら訴える。


「結花……俺は、君とそうやって幸せになりたかった」

「うん。私もそうなりたいって思ってた。でも気持ちだけで十分。この五年間、律がずっと私のことを想ってくれてるの見てたから。それだけで私はもう、十分幸せだよ」


 にこりと笑う結花はやっぱりこの世で一番美しい。結花が手のひらの婚約指輪にキスを落とす。


「それ……」


 結花に送るはずだった指輪。


「律。これは、約束の印に貰っていくね。こんなの家に置いておいたら、新しい彼女がびっくりしちゃうからさ」


 結花は婚約指輪を愛おしそうに抱き締めた。


「結花……」


「私のお願い、聞いてくれるよね?」


 目を伏せ、ゆっくりと息を吐く。どうしても、頷けない。


「いやだ……」


 いやだ。


 だって、頷いたら、本当にさよならになってしまう。奇跡のような繋がりが完全に切れてしまう気がして、怖くて悲しくて、寂しくてたまらない。


「こら、律。男の子でしょ」


 優しい声で叱られる。それすら愛おしい。もっと言ってほしいと願ってしまう。


「だって」

「大丈夫。あっちの世界で、おじいちゃんになった律のこと、いつまでも待ってるから」

「結花……」

「お願い、律」

 結花の真剣な眼差しに、俺は言葉を飲み込んで頷いた。

「……分かった」

 結花が、満足そうににっこりと笑う。

「でも、その代わり……俺のお願いも聞いてほしい」

「律の……お願い?」

 結花はきょとんとした顔で、瞳を瞬かせた。

「なに?」

「結花のお願いはちゃんと聞くから、ちゃんと卒業するから……だから最後に、その指輪は、俺に付けさせて。それで、終わりにしよう」

 結花の瞳が揺れる。

「え……いいの?」

 声が震えていた。

「当たり前だろ。これは誰にも譲れない」

 結花の手のひらから指輪を取ると、白く華奢なその指を握った。


「……結花。守ってやれなくて、ごめん。生きているときに、この指輪を渡せなくて、ごめんな」

 結花はなにも言わず、ただ首を横に振った。

「結花、愛してる」


 瞳いっぱいに涙をためて、けれどにっこりと笑いながら、結花は俺を見上げた。堪らなくなって、力の限りその身体を抱き寄せる。


 触れ合った小さな身体から、たしかに温かさが伝わってくる。とうとう結花が泣き出した。


「もっと……もっと抱き締めて」

 結花が縋り付く。嗚咽が胸をぐっと締め付けた。

 彼女への想いは、五年経った今でも色褪せない。それどころか、湧き水のようにとめどなく溢れ出してくる。


「ごめん……置いていって、ごめんね。律……」

 結花は泣きながら、何度も謝る。


「……なんで君が謝るの。結花はなにも悪くないだろ」

 ただ結花を抱き締め、小さな頭を撫で続ける。


「律、大好き。今でもずっと大好きだよ」

「うん……俺も、愛してる。愛してるなんて言葉じゃ足りない。そんな言葉じゃ言い表せないくらい、愛してる。この世のなにを捨てたって、ずっと君と一緒にいたかった。もっと君の隣で、君と笑っていたかった……」

 向かい合い、笑い合う。

「……ありがとう、律」

 結花の身体が、砂のようにさらさらと崩れていく。


 待って、行かないで。

 

 叫びたくなるけれど、口にしてはいけない。だって、約束したから。

 俺は静かに結花の頭を引き寄せた。

「いつか必ず、見つけに行くから」

 お互いの唇が重なった瞬間、結花は真昼の雷のように、儚く消えた。

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