第4話

「いただきます」

 目の前に置かれた湯気を立てるどんぶりを前に、葉月は嬉しそうに声を弾ませて手を合わせた。


 お箸で器用に麺をつかみ、息をふうっと吹きかける。ゆっくりとそれを口に持っていき、上品に啜った。食い入るようにその様子を見つめていると、

「美味しい!」

 頬をふくらませながら、葉月はその小さな顔に笑みを滲ませる。無垢な笑顔に、つい俺も笑顔になった。

「ラーメンなんて、久しぶりに食べたよ」

 ぽつりと言った葉月を、じっと見つめる。細い腕、子供の割に白い肌。

 黙り込んだ俺を見て、葉月は笑った。

「なーんてね! ねぇ、お兄さん名前なんて言うんだっけ?」

 そういえばまだ名乗っていなかった。


「あ……俺は、雛森ひなもりりつ

「律……じゃあ、りっちゃんね! ねぇ、りっちゃん! 私を拾ってくれたついでに、この仔猫もここで飼っていい?」

「拾った覚えはない。家に帰れよ」

 葉月は勝手にここに住むつもりでいるらしい。

「……それはいや」

 ふいっとそっぽを向く姿は、まるでいじけた子供そのものだ。

「……なんでだよ」

 できるかぎり優しい声で訊ねると、

「言いたくない」

 やはりそっぽを向く。

「……バレたら俺が捕まるんだよ」

「……分かった。じゃあ出てくよ」

 とぼとぼと玄関に向かう葉月の背中。それは無性に不安を駆られ、心がざわついた。


「わ、わかったよ……」

 気が付けば、葉月の小さな背中に向かって声をかけていた。

「えっ!?」

 葉月がくるりと振り向く。

「本当!? いいの!?」

「まぁ……今さらだしな」

 葉月はぴょんぴょん飛び上がって喜びながら、俺に抱きついた。

「ありがとう! あ、そだ。名前はなににしよう。うーん……あ、決めた! ユイカとかどう??」

 俺は、目を瞠った。まだ乾かない生のままの傷がじくりと疼く。


「……可愛いでしょ? ねぇ、ユイカ!」

 葉月は無邪気な顔で仔猫を抱き上げた。

「みゃあん」

「……いや、なんでわざわざ猫に人間みたいな名前付けるんだよ。わざわざそんな名前にしなくたって、もっと他にあるだろ。ほら、タマとかポチとか」

「うーん、だって、なんか思いついたんだもん。いいじゃん、ユイカ! 可愛い!」

「だからって……」

 尚も食い下がろうとする俺を、葉月は強引に遮った。

「ねえ! 私、遊園地行きたい! それからカラオケ! あとは海もいいなぁ。天体観測とかもしてみたいし」

「はぁ? 待て待て待て。図々しいにもほどがあるだろ……」

「え、ダメなの? ……私、追い出される?」

 途端に、捨てられた猫のようにしゅんと小さくなる葉月に、俺は深いため息をつく。

 この顔は良心が痛む。


「……お前、わざとだろ?」

「……出てく?」

「……分かったよ」

「きゃーっ!! やったぁ!」

 葉月はころりと態度を変えた。

「女って……」

 まるで猫を一度に二匹飼い始めたようだ。

「その代わり、条件は出すぞ。仔猫の面倒はお前が見ること」

「もちろん!」

「俺が仕事に行ってる間は無闇に外に出ないこと。万が一警察に見つかったりしたら俺が困る」

「分かった」

「それから、最後にひとつ。お互いのことには深く干渉しないこと。以上、守れるか?」

「任せといてよ!」

 やけに素直だ。

「ならまぁ……よし」


 葉月の笑顔は、なぜかとても俺の心を打った。釘のように刺さって抜けない。こんなことは、結花以外の女性では初めてのことだった。


 葉月は女子高生とは思えないほど家事が手馴れていた。まめまめしく洗濯物を畳む様子はまるで主婦のようで、それがどこか女子高生である葉月の外見とちぐはぐで、見ていて少し面白かった。


 いつも俺の好物ばかりが並ぶ食卓で、うっかり一人暮らしでもしていたのかと訊ねそうになって、俺は慌てて口を噤んだ。

『お互いのことには干渉しない』のだから、と。

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