第4章 ゾーイ・ンゴロンゴロ
第16話 空鯨
移動し続けて三日目には街道の人通りもまばらになって、いよいよその景色の広大に圧倒されるようになった。飽きもせず景色ばかりに見とれているレンジをチンチラが呆れている。
馬の鞍でこすった内腿の痛みを気にして顔をしかめているときにレンジは目線を感じた。しましま模様の大木に大きな豹が二頭、木の上からじっと一行を見ていた。一頭は前足で幹を抱えながら横目で、もう一頭は大きな前足に顎を乗せて、垂らした尻尾を揺らしながら。獲物の赤黒い肉が枝から垂れ下がっている。
豹ってあんなに大きかったかな、と思いながらじっと目を逸らさない美しい獣を、レンジは馬上から首が痛くなるまで見続けた。しばらくして、モニターの外にある実際のものはなんでも大きく見える、と納得した。
刻々移り変わる多感な光景。不可思議な自然現象に心をときめかせつつも、慣れてきた頃には、レンジはサバンナの砂っぽさを愚痴るようになっていた。「いまは乾季だからな。道が荒れる雨季よりもずっとましだぞ」仲良くなった人足のオヤジが言った。
空は青く晴れ渡っていて風が気持ちいい。遠くに見える雨雲は、その下に雨が降って灰色に見える。天気の境が見えるほどに広く空気が澄んでいる。初めて見る地平線。ビルほどもある巨大な生き物の化石の間をキャラバンは行く。ギンも人足たちも、誰に聞いてもその骨がどんな生き物の骨なのか知らなかった。
そのとき不意に背後から一行を濃い影が覆って、そのままゆらゆらと通過していった。見あげても青い空。レンジは驚いて何度も遠のいていく影と空を見回す。それは巨大な魚の影に見えた。みんなは特に気にした風もない。
「いまの見えなかった?」
隣にいた若い人足に聞いてみる。
「空鯨? 見えたよ」
「空鯨ってなに!? どっか、飛んでるの?」
沈黙が返ってきた。レンジは空鯨についてなにか知っているか、キャラバンの全員に聞いて回った。
あれは鯨じゃなくてシャチだ。あれは鯨が地上にいた頃の思い出だ。あれは夜になると空に登る。子供の頃に海老で釣ったことがある。誰もが適当なことを言った。
レンジにとってわけのわからない不可思議な自然現象は、みんなにはあたりまえな日常で驚くことでもないらしい。それぞれが勝手な解釈をして納得していた。
街道沿いに設置された宿場が尽きる地帯に入った。日が暮れる前に人足たちが野営の準備を始める。テントを設営して、獣除けの篝火が起こされる。チンチラが太鼓を叩いたり歌を歌い出す頃には、食欲をそそる香辛料の香りが漂いだした。
干し肉と香草のスープに硬いパン。簡素でも十分に満足できる食事だった。適量のビールかワインが振る舞われて、あとは寝るまで思い思いに過ごす。最初の数日は、人足たちは彼ら同士でつるんで過ごしていたが、そのうち打ち解けて一緒に火を囲むようになった。
食事を終えて後片付けをする者、明日の準備をする者の静かな音が荒野に響く。音をたてないように気を使いながら手際よく片付ける。チンチラは食べたらすぐに寝てしまう。
レンジとギンは今日最後のビールの一杯を呑みながら星空を眺める。穏やかな時間が流れて、足腰に残った昼間の疲労感が心地いい。
「空鯨の話なんだけどさ」
「だからわからないって。おまえがあんまりしつこく聞いてくるからみんなうんざりだぞ。それよりおまえの言ってた宇宙ってのは? 銀河とかどういう概念だ?」
ヌースフィアでは天体の正体は解明されていない。部族や民族、学者によってそれぞれの世界観や神話で解釈されていた。ギンは暇さえあれば地球のことを聞いてくる。
「おまえが言ってる宇宙って空か? 世界か?」
「そうだけど、もっと、きらきらの、銀河、星が広くて……」
「あぁ?」
「ごめん、ちゃんと説明するから」
それからレンジは太陽系とか天体とか、知っている限りの宇宙に関する知識を披露した。
「ビッグバンとかアインシュタインとかハイゼンベルク先生の話は、おまえの説明が悪いからさっぱりわからん。なんでそんな大事なことをちゃんと勉強しなかったんだよ、おまえの世界だろうが」
「勉強してもわからなかったんだ」
そうなのか、と言ってギンは笑った。
「しかし、星ってのは球体で恒星と惑星があるって話は面白い、理に叶ってるようにも思える。地球にも、月と太陽はあるんだろ?」
「あるんだけどこっちのは妙にでかいし雰囲気が怪しいんだよな、空気が綺麗だからかもだけど」
宇宙とか星とか、地球にいた頃はなんとなくわかったような気がしていた。冷静にゆっくりと考えてみると、いや別になんとなく考えてみるだけでも不可思議だ、さっぱりわからない、なにひとつまともに説明できない。それにしても空鯨ってなんなのだろう。
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