第2話 心療内科

 なにかおかしいというのはわかる。体調が深刻に悪いのもさすがに自覚できる。ほとんど全ての能力が低下して、今まで苦もなく出来ていたことがまるっきり出来なくなっている。簡単な作業や読み書きが何時間かかっても終わらない。運動神経は芋虫いもむし並みに落ち込んで、電車にもろくに乗れないし、せっかく入れた大学も入学式にすらいっていない。今期の取得単位はゼロだろう。



 蓮次れんじはずいぶん前から心療内科に通っていた。心配させるのが嫌で、家族や友人には内緒にしたまま今日に至っている。


 病院の待合室には子供が描いたような絵がたくさん飾ってあって、アンビエント音楽が小さな音量で流れていた。


 うんざりするほどたくさん項目があるアンケートを渡される。字を読むのも自分の名前を書くのも大変なのに。冷や汗をかいて倒れそうになりながら記入した。


 それから部屋に呼ばれて、カウンセラーなのか医師なのかよくわからない私服の男性に、家族関係から経歴から始まって、親族で自殺した人はいませんか、お酒は、薬は、変な宗教に入っていませんか、根掘り葉掘り聞かれたあとにやっと診察らしきものが始まった。


「自分以外にまともな人間に会ったことがないんです」蓮次は疲れ果てた調子で言った。「もちろんあなたも変な質問ばかりして、正直に申し上げていかれていらっしゃると思う。この世で目が覚めてるのは僕だけで、みんな寝ぼけてるんじゃないかと思います実際」


 とりあえず言っておかなければと思って発した蓮次の言葉は冷静に無視された。


「外出することが難しくなってから、自宅では主に何をしているのですか」

「動画サイトで核実験の映像を見ています」

「ずっとですか?」

「はい、起きてるときはずっとです」


 蓮次は核爆発の映像にとり憑かれている。AKIRAという古い日本のアニメの爆発シーンにしびれてからのことだ。お気に入りの核爆弾はロシアのツァーリボンバ。この水爆は爆発の衝撃波が地球を三周するという。ロシアの連中はどんなつもりであんな極悪な代物を作ったんだろう。


「なにかほかにやりたいことはありますか?」


 その医者なのかなんなのかよくわからない人が、リラックスして素直に自分の気持ちを話してほしいと言うから、蓮次は言葉を選びながらも語り始めて止まらなくなった。


「全身ファストファッションに身を包んでハンバーガー食べてる家族連れを燃やしたいです、あと台東区の電柱を抜きます、はい全部です。オタクあがりの成金が僕を騙して管理しようとしているから、球技とダンスで対抗しようと思います、あいつら多分下手だから。それから……」


 その医師らしき人は延々続く蓮次のいちゃもんに気分を害し、やがていらつき始め、最後はあきれ果てて額をおさえて目をつむった。爆音で走るすべての広告宣伝車を襲撃して筑波山に埋める計画を話し始めた蓮次の膝に手をあてて、落ちついて、と言った。


 彼は蓮次に哀れみの一瞥いちべつを投げてから、淡々と薬の説明を始めた。気分が落ちつく薬、よく眠れる薬、不安を抑える薬、やる気を起こす薬、他の心療内科でもそれぞれ別々の、よくわからない心に関する病名をつけられて、たくさん薬を処方された。


 気分は落ちつかないしまったく眠れないし出自不明の不安はおさまらないし、そもそもやる気を起こす薬とおとなしくさせる薬を一緒に飲むってこれいかに。



 蓮次は核爆発の鑑賞を日課にしているだけではなく、頭の中で常に核爆発を起こして目に入る光景を根こそぎ吹き飛ばしながら日々を送っている。視界だけではなく記憶とか気分とかいろいろも吹き飛ばそうとしているが、まだ成功していない。こんなに四六時中核爆発しているのに。


 とにかく圧倒的なエネルギーで良いも悪いも全て吹き飛んで欲しい。なにもかもが気に入らないからだ。それで気分が上向く気がしていたが、それも錯覚だったみたいだ。日々、暗い渦巻き銀河は大きくなるばかりで、薬を飲むほどに体調はますます悪くなり、若さとか時間とかなにかその類の良さそうなもの、健康そうなものの一切合切をだいなしにしながらその中心の虚無へ落ちていく。


 銀河の中心にある暗黒はもうすぐ俺を飲み込むだろう。中心の暗い重力にはあらがえない。



 蓮次は今日、いつものように最悪な気分で目をさまして、半日かけて重い体を起こしてやっとのこと最初の珈琲を口にした時に、周りを吹き飛ばすより自分が吹き飛んだほうが早い、結果は一緒じゃないか、ということに思いいたる。それで一週間ぶりににふらふらと外に出てきたというわけだ。

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