カンナカムイの翼

ななじぬぅす

第1章 現世

第1話 渦巻き銀河

 我慢できない風景のなかにいる。


 西日が射す夕方の山手線。車内に貼り散らかされたポスターと、垂れ下がった中吊り広告。ドアの上部に取り付けられたディスプレイからは繰り返しCMが流される。黒羽蓮次くろばねれんじはそれらの広告が視界に入らないように不機嫌な目線を泳がせたが、どこにも逃げ場がないことに気がついた。


 右を向いても左を向いてもスマートフォンに目を落としても、世は広告に埋め尽くされている。金を使えとせまる。そんなに金があるわけないだろ。稼ぎもない学生の視界を埋め尽くす必要がどこにある。


 蓮次は今日もいつものように、わけのわからない怒りと苛立ちにさいなまれている。第二次性徴で色気づきだした頃ぐらいからだろうか、胃から胸のあたりに悪い予感と重い気分で形成された暗い渦巻き銀河が存在するようになって久しい。以来、なにもかもが落ち目になっている気がする。


 銀河の中心ではブラックホールなる虚無が、無限大の重力を発揮しているという。いったいどういうことなんだか。



 広告から逃げまわる目線の先に、向かいに座るサラリーマンが居座った。顔色が悪い。前世紀から一度も顔を洗っていないのか。膝に置いた黒い手提げかばんに両腕を預けたまま、小鼻と眉間にしわを寄せて力なく床の一点を凝視している、風を装ってドア側に立つ女子高生の太ももにチラチラと視線を送っている。


 明らかな中年顔に、不貞腐れた子供のような面影が宿っている。ちぐはぐな印象が気持ち悪い。発散される怠惰と諦めの気分の波が、弛緩しかんした車内の空気に乗って蓮次に届く。


 陰鬱に、無表情になにを思っているんだろう。乗客で元気そうなのは老いぼれだけで、中年以下は全員神経を病んでいるか、内臓でも悪いのかと思う。


 俺は何もかもが気に入らないけども、おまえらはなにが気に入らないんだ?


 元気な人は蓮次を不安にさせる。陰鬱な人はその雰囲気だけで蓮次の元気を奪う。この空間には逃げ場がない。


 蓮次の呼吸が浅くなる。空調は効いていて寒くもないし暑くもないのに汗が止まらない。だんだん視界が狭くなってきて、息苦しい。深呼吸をして落ちつこうとすると焦ってさらに汗が吹き出てくる。


 限界だ。蓮次は手すりにつかまりながら倒れこむようにホームに降りた。進路を塞がれた乗降客に不審な目を向けられながら、落ちつくまでその場で呼吸をととのえる。



 有楽町駅。鳴り響くけたたましいベルの音が体に刺さるようで不快感がつのる。アナウンスの声が聴こえるが、蓮次の頭には言葉の意味が理解できない。電車に乗るといつもこんな症状が出る。外が見えるから地下鉄よりもましかと思ったのに、変わらなかった。


 改札を出て最寄りのコンビニに入った。ミネラルウォーターを持ってレジに並ぶ。蓮次の前にはカロリーが皮膚を突き破りそうな女性、首周りから上腕にかけては、蒸かしたての肉まんのようだ。彼女がレジに置いたカゴにはパック入りのミルクティー、ペットボトルのコーラ、おにぎり三個とミートソースのスパゲッティ、プリンとモンブラン。


 一人で食べるのか? このバラバラな組み合わせからするときっと一人でいく気だ。間違いない。


 蓮次はいつからか、この世の全てにいちゃもんをつけることを止められなくなった。気がつくとあらゆるものを罵倒している。彼女がなにをどれだけ食べようとなんの関係があるのか。しかし蓮次のいちゃもんも、彼女の食欲も止まらない。止められない。


 18年と少し前に4100グラムで産まれた。母はよく頑張ったと思う。産まれた時はだいたいみんなそのぐらい、柴犬程度の大きさと重さでスタートしたはずなのに、この女性は……。極地の氷原で脂肪を溜め込んだ皇帝ペンギンみたいになるまでのどこかで、己の食生活を悔い改める機会はなかったのか。周りの親しい人間は、彼女が度を越して丸々としだす前に声をかけてあげなかったのか。いや、周りの人間も皇帝ペンギン。皇帝ペンギンの群れ? もしかして本当に南極に行くのかな。寒いところで体温を維持するには大量のカロリーが必要だから。


 畏怖の念でその品々を見ていると、彼女はさらにレジ横のドロドロに油ぎったフライドチキンとホットドッグをオーダーする。


 それはいけない!


 蓮次は思わず一歩前に踏み出してしまった。出かかった、いい加減にしろ! という言葉をかろうじて呑み込む。


 どこに行こうとしているんだこのペンギンは。そんな悪いものばかり食べて。食べ物で自分を痛めつけているんじゃないか。心の隙間を脂肪で埋めるつもりか。


 呼吸がまた浅くなってきた。身の内に渦巻く暗い銀河に、己を蝕む暗黒のカロリーが流れ込んでくる。


 彼女はおでんに秋波を送りながら、のしのしと店を出ていった。蓮次は呆然とそのペンギンの後ろ姿を見送るしかない。


 どうぞ、と店員さんに声をかけられる。名札には異国風の名前。海を越えて、こんな遥かに遠い国に来てペンギンに餌をあたえて、正気を失う寸前の学生に水を売るという仕事をそつなくこなす。その人生の不思議。君はどこから来て、俺と一瞬すれ違った後にどこへ行くのか。

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