短編の本棚

ヌン

月だけが知っている

 月が雲に隠れた仄暗い夜。

 塾の帰り道、目の前を横切った黒猫になんとなくついてきたら、知らない路地裏に迷い込んでしまった。

 大通りからズレたそこはおもての喧騒も遠く、コンクリートのビルに備え付けられた室外機が回る鈍い音と自分の足音だけが響いている。

 自分と前を歩く黒猫以外はここには存在しない。周囲はコンクリートに閉ざされ、暗闇に支配されたここはまるで異世界だ。

 道であるはずなのに、密室であるかのような圧迫感。昼間でさえここには光は入ってこないような街の中に開いた孔。なのに不思議と恐怖はなかった。

 壁を這うパイプの上では黒猫が我が物顔で先へ進んでいる。真っ黒な毛並みは暗闇の中にとけて消えてしまいそうなのに、不思議と目で追ってしまって視界から外れてくれなかった。


 猫を追って歩いていると、不意にポツポツという雨のような湿った音がした。

 だが、空を見上げても雨雲などおらず、せいぜい月の光を弱らせることができるくらいの薄い雲しか見当たらない。

 奇妙に思い、周囲を見渡してみてもコンクリートの壁や地面が濡れている様子もないし、僕の体も一切濡れてはいない。

 ————なら、この音はどこから?

 よく耳を澄ませてみると、音はもう少し奥から響いてきているようだ。

 一瞬、思考を巡らせただけだったのだが、前を歩いていた黒猫はどこかへ消えてしまっていた。

 ここから先は一人で行くしかないようだ。


 カツンカツン

 ————周囲に反響した自分の足音が嫌に耳に残る。

 カツンカツン

 ————だんだんと呼吸は浅く、視界は狭くなっていく。

 カツンカツン

 ————心臓の鼓動だけが大きくなっていく。


 雨音は突き当りの角を曲がった先から聞こえる。

 静かに壁に背を沿わせ、隠れながら音の発生源をゆっくりと覗き込む。————刹那、息をのんだ。


 赤、赤、赤、赤、見える限り視界のすべてが赤く染められた。

 まるでバケツに入ったペンキをばらまいたようにすべてが同じ赤だった。

 路地の中央に膝立ちで佇む首なしの死体がまるでスプリンクラーのように血を吹き出して、地面も壁も濡らしているからだ。

 そんな異常な光景を一人の女性が呆然と見つめていた。

 きれいな横顔は返り血に濡れ、長く艶やかな黒髪からは血が滴っている。

 彼女はただそこに力なく幽霊のように立っているだけなのに、その姿は絵画から切り抜かれたように美しく、艶めかしい引力を持っていた。

 そのすべてを雲から顔をだした月明りが照らし出していた。


 呼吸すら忘れて数秒のあいだ、それを見つめていた。

 いや、正確には目をそらすことができなかったんだ。

 驚き、恐怖、疑問、いろいろな感情が一瞬のうちに胸の中を駆け回ったが、すべてが1つの感情に押しつぶされてしまい、動けなくなってしまった。

 彼女の強力な引力に惹かれたまま、見つめることしかできなかった。


 ぴしゃりと雫が頬に当たった。

 真っ赤な液体が頬からあごへと流れ落ちた。

 その衝撃でようやく我に返る。

 むせかえるような血の匂いで状況を理解した理性が恐怖を覚え、本能が全力で体を走らせた。

 振り返ることもできず、ただ逃げて逃げて逃げて、路地裏をとび出し、通学路を走り抜けて、まったく知らない公園まで来た時にようやく足が動くことをやめてくれた。

 おびえるように周囲を確認して、誰もいないことがわかると全身から力が抜けた。

 倒れるようにベンチに仰向けで寝そべると、急に体が震え始めた。だが、それは恐怖からではなく、あまりの美しさに取りつかれてしまったからだ。

 瞼の裏にはあの時の光景がしっかりと焼き付いてしまっていた。

「はっはは、あははははっ」

 口から乾いた笑いが勝手に漏れていた。

 あまりにも美しすぎる、すごい光景を見たという高揚感と、あの光景を美しいと思ってしまった一抹の罪悪感が僕を満たしていて、なんというか————最高の気分だった。


 その日からというもの、僕は変わってしまった。

 朝食を食べているときも、授業を受けているときも、帰り道、入浴中、夢の中でさえ、寝ても覚めてもあの光景、あそこにいた女性のことが、頭から離れてくれなかった。

 テレビのニュースで彼女の犯行と思わしき惨殺事件が報道され始めると、僕は昂った。

 ニュースを見ている誰もが知らない殺人鬼の正体を僕は知っている。あの美しい姿を見たことがあるのも僕だけという背徳感。そんな歪んだ感情が僕を満たしていた。


 それから数日経ち、事件が大々的に報じられ始めると、学校の部活は休みになり、夜の外出は禁止されるようになった。

 塾や習い事も休みになったおかげで子供たちも出歩かなくなり、大人たちも無差別殺人に怯えて夜で歩く人間は減っていった。

 街に住む誰もが、正体不明の殺人鬼に怯えているのだ。————僕を除いて。


 家族が寝静まった時間。

 音を出さないように静かに二階の自分の部屋から抜け出した。

 家から抜け出すのは案外簡単なもので、窓から屋根伝いに降りれば廊下や玄関を経由せずに外へ出られた。

 いつもの僕なら、こんなことしなかっただろう。

 だけど、僕は変わった。変えられてしまったんだ。


 家から抜け出した理由は簡単で、もう一度彼女に会いたかったからだ。

 彼女に会ってどうしたいかは自分でもよくわかっていなかった。

 それでも気持ちが抑えられず、こんな愚行に走っている。


 向かったのはあの日の路地裏。だが、あの時は黒猫について行っただけなのでもちろん道など覚えてるはずもなく、たどり着くことはできなかった。

 たどり着けたところで、もう一度そこに彼女がいる可能性など極めて低いだろう。それもわかっていたが、僕と彼女とのつながりはそこにしかなかった。

 だから、何日も何日も繰り返し夜の街を歩き回った。


 日が経つにつれだんだんと被害者の数が増えていく。そうなれば犯人を捕まえるために、巡回する警官の数も増えていく。

 まだ学生である自分がこんな時間に出歩いているのが見つかれば、確実に声をかけられ補導されるだろう。

 補導などされてしまえば、学校や親の耳にも入り家から抜け出すことができなくなる。だから急がなくては。————早く彼女のもとに。


 幼い恋心にも似た感情は、時間を経るごとに焦りを生み出し、歪んだものへと変貌していった。

(なんで、見つからない!?僕はこんなにもあなたに会いたいのに……)

 募った焦りからか、次第に僕は殺された人々に嫉妬するようになっていった。

 なぜ彼らは彼女に会えたのだろう?

 なぜ彼女は彼らを殺したのだろう?

 それが頭の中をぐるぐるとずっと駆け巡っていて、もともとまともに受けてなどいなかった授業も耳に入ってこなくなってきていた。


 まるで水の中にいるような息苦しい日々の中、その日は突然訪れた。

 いつ殺人が起きてもおかしくないような暗がりの路地に入ろうとしたとき、巡回していた警官に声をかけられてしまったのだ。

 それに驚き焦った僕は、慌ててその場から逃げ出した。

 警官からかけられる制止の声も振り切って、ただがむしゃらに。

 あの日、殺人現場から逃げたように、ただただ逃げるのに必死だった。

 走って走って走って、————気が付くとあの日の路地裏にいた。

 ご丁寧なことに、壁を走るパイプにはあの日と同じように黒猫まで歩いている。ここまで再現されてしまえば、期待してしまうのが人間だ。


 心臓がドクンドクンと波打っているのがわかる。

 すうっと息を深く吸い、高まる期待感をなんとか飲み込むと前をふらふらと歩く黒猫の姿を見失わないように後をついていく。


 今日の路地裏は、明るかった。

 空に雲はなく、月が大きな顔をして地上を見つめている。

 そのせいか不思議とこの路地裏も怖くない。

 一歩進むごとにうるさくなる心臓の音、緊張で呼吸が浅くなり視界が狭くなっていく感覚、まるで落ちる前のジェットコースターみたいだ。

 見覚えのある路地に差し掛かると心臓が止まりそうになった。

 あの先に、彼女が……。

 そう考えた瞬間には、体は駆けだしていた。

 勢いのままに角を曲がり、あの日の光景を幻視する。

 そこには予想通り、期待通りに彼女————あの日見た殺人鬼の姿があった。


 あの日と同じように彼女はそこに立っているだけだった。それはまるであの日からずっとそこにいたように。

 喜びのあまり声もかけられず立ちすくんでいると、いきなり彼女の姿が消え世界が回った。

 違う、世界が回ったんじゃなく僕が回ったんだ。

 一瞬のうちに殺人鬼に胸倉をつかまれ、投げられた。そう理解するには一瞬では足りなかった。

「なんだ、お前」

 僕を地面に押し倒したまま凛とした声で殺人鬼は問いかけた。

 だが、その問いに答えようにも地面にたたきつけられた衝撃で肺から空気が抜けてしまい、声など出てきてくれなかった。

「ん?……お前、たしか、前にここで殺ってた時に逃げ出した奴じゃないのか?」

 声も出せず、身動きもできないが体が喜びに打ち震えているのがわかる。

 ちゃんと彼女に認識されていた。その事実に喜びと涙があふれた。

「なんだ、お前」

 同じ言葉なはずなのに、その中に含まれている意味は大きく違っていた。

 嫌悪感と疑念、殺意。

 そんな感情でさえ、向けられていることに喜びを覚えてしまう。

「まあ、いいや。……どうせ殺すんだから、関係ないよな」

 静かに腰から取り出したなにかが首に押し当てられた。

 首に触れた冷たいものが肉を切り裂き、血がにじむ。だが、恐怖はない。

 彼女に殺されるなら、本望だ。

 体の力を抜き、彼女の次の行動に身を任せた。

「抵抗しないのか?オレは今からお前を殺すんだぞ」

 殺されようとしているのに、一切抵抗を見せない僕に苛立ったように彼女は押さえつける力を強めた。

 地面に全力で押さえつけられた体が軋み、悲鳴を上げる。

「あ、あの日から、僕は、あなたに会いたくて。あなたをずっと探してきました。僕は、……あなたに殺されるなら本望です」

 軋む体から、声を絞り出した。その声はなんとも情けなく、力もなかったが、僕たち二人だけの路地裏ではよく響いた。

 それがよほど面白かったのか、彼女はあははははっと壊れたように笑い始めた。

「お前、おかしいんじゃないのか?わかったよ……それじゃあ遠慮なく」

 くっと首に触れる刃に力はいるのがわかった。

 あと一瞬もあれば彼女に殺してもらえる。

 そう考えたら安心からか全身の力が自然と抜けた。

 抵抗などするはずなどなく、自分の最後の瞬間を待って瞼を閉じた。



「冷めた」



 突然、首に当てられていた刃の感覚がなくなった

 彼女は馬乗りになっていた僕の体から離れると、興味をなくした猫のようにそのまま背中を見せた。

「言われるまま殺すなんて面白くない。————お前を殺すのはやめだ」

 氷よりも冷たい声音でそう告げた。

 その言葉は僕にとって死刑宣告よりも残酷な言葉だった。

「ちょ、ちょっと、まっ」

 真っ白になった頭のまま、無理やり体を起こして這いつくばって彼女に縋った。

 だが、そんな僕を足蹴にして振り払うと、じゃあなと一言別れを残して、夜の闇に溶けるように路地の向こうに消えていった。


 置いて行かれた僕は、呆然と這いつくばったまま動けなかった。

 あの日から一日千秋の思いで恋焦がれていた人が遠くに行ってしまった。

 胸にぽっかりと穴が開いてしまったようで、頭の中は真っ白で、驚くほど何の感情もわいてこなかった。

 大事なものがどこかへ行ってしまったはずなのに、声を上げることもできず、涙も悲しみもなにも湧き出てはこない。

 そのとき、ようやく僕は理解した。


 あの日出会ったときに、僕は彼女に殺されてしまっていたんだ。


————そのすべてを月だけが知っている。

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