9th Mov. 彼女と英雄ポロネーズ

 三人で揃ってホールに入ったタイミングは、伏見さんの出番の五人くらい前だった。そこで、一度ホールの真ん中くらいの席に座り、伏見さんの出番を待つ。


 さっき僕が見ていた時に演奏していた小さな子供たち。その順番は終わったようで、今は大人の演奏者さんたちとなっている。


 予想外だったのは、大人の演奏者さんの腕前。


 大人でピアノを弾いているとなればキャリアは数十年。すごい上手なんだろうと思っていた。……のだけれども、緊張に手が震え、満足に鍵盤を押せない人や演奏につまずいて何度も弾き直しをする人も珍しくなかった。というより、そっちの方が多かった。


 演奏の合間に神田さんに聞いてみると、趣味として大人になってから始めた人が多いとのこと。むしろ大人になっても、習い続けている人の方が珍しいそうだ。


 見ているこっちまで緊張してしまいそうなほどに伝わる演奏者の人の緊張。つっかえる度にハラハラとしてしまい、小さな子と違った意味で感情移入してしまう。思わず、頑張れと応援に力が入ってしまうほどだ。


 そうやって思いのほか、ピアノの演奏を楽しんでいると神田さんから「行くよ!」と声がかかった。いつの間にか、ラスト演奏者の伏見さんの順番になったようだ。

 神田さんの後を追ってホールの前に移動する。ここは演奏者さんの身内の人たちが、演奏者の晴れ舞台の写真を撮ったり、動画を取ったりするために空いている席らしい。


 神田さんは、演奏後の伏見さんに花束を渡すべく前に移動するということだったので、僕らも一緒に移動した。


 そこは最前列の席。目の前に鎮座する大きなピアノ。ただ、それだけ。ピアノと椅子が眩いライトに照らされている舞台。

 遠目で見ていた時には、感じなかったピアノの圧力を感じる。



 ――そして始まる。

 僕の人生観を変えた彼女の演奏が。

 なんとなく生きてきた僕に目標を与えてくれた演奏が始まったんだ。



 今までの生徒さんの演奏と違い、会場の照明が落ちる。今は、舞台上のピアノだけに灯が降り注いでいる。


 今までと違う演出なのは、お披露目演奏だからなのかもしれない。


「プログラムナンバー40番 伏見ふしみ つむぎさん。演奏はフレデリック・ショパン作曲 Op.オーパス53 英雄ポロネーズ」


 ゆったりと取った間。

 少し硬めのアナウンス。


 そのアナウンスが終わると、舞台袖にスポットライトが当たる。


 主役の登場だ。

 淡い青のドレスを纏い、ヒール音を高らかに鳴らしながら、舞台袖から歩み出でた伏見さん。

 髪はアップにして目鼻立ちがくっきりしたメイク。

 普段着るようなことのない恰好。なのに不思議と調和が取れていた。


 舞台を照らすスポットライト。

 鎮座するピアノ。

 青い衣装を身に纏った彼女。

 後を追う照明。


 高校での印象とは程遠い。


 慣れた様子で優雅な挨拶を終え、椅子に座る。彼女は足元のペダルを確認して、上を仰ぎ見た。


 ゆっくりと天井を眺めている彼女の目には、何が映っているのだろうか。そう思ってしまった。


 視線を戻した途端に始まる演奏。

 ダーンという叩きつけるような音。重めの和音からスタートしたその曲は、『英雄ポロネーズ』というらしい。

 低い音。駆け上がるような、何かに追われているような旋律が続く。

 やがて暗い道から抜け出せたように軽い音に変わっていき、一転して穏やかに。


 ――――凄い。本当に凄い。


 曲の難度が圧倒的というのは分かる。

 それ以上に押し寄せてくる彼女の音。

 重くて深くて、軽くて柔らかい。まるで音が打ち寄せる波のように僕の体を揺らしていく。


 申し訳ないが、今まで聴いてきた演奏者のピアノとは別次元。そもそも、同じピアノを弾いているのかとさえ思ってしまう。

 今までが平面とすれば、立体的に音が鳴り響いている。それくらい違う。


 厚み? 重さ? 大きさ?


 何がこうまで違うのか分からない。分かったのは、ピアノという物はココまで凄い楽器だったのかということ。今日の今日まで、学校に当たり前に置いてあって、触れば音の出る楽器程度にしか思っていなかった。


 ピアノという物は、弾き手が素晴らしいと、こうまで力を発揮するものだとは。


 それだけじゃない。

 音だけに限らず、演奏者の熱まで伝わってくるようだ。

 良くフェスやコンサートなどで生の演奏だから良かったと聞くが、それは本当だった。


 イヤホン越しに聞こえてくる音楽との違い。

 身体を振るわせるほどの音のエネルギー。弾き手の熱量。こんな世界があったなんて。それも僕と同じ年の女の子が発しているんだ。


 音、熱、全てを身体全体で受け止める。未知なるエネルギーに揺さぶられる僕の身体。お腹の底がゾワゾワしてくる。


 これは興奮なのか。それとも感動なのか。自分にもわからないエネルギーが、お腹の中でグルグルしている。その動きは、彼女の演奏でどんどん加速していく。


 華やかなで軽やかな音色に変わると、僕の身体に優しく染み入るピアノの音たち。

 彼女の演奏は、楽し気で音が跳ねているようだ。


 揺さぶられるような重さは消えても、彼女の音からは逃れられない。重く激しいメロディーは終わったはずなのに。


 曲が進み、悲し気で、か弱い音になっても、勇壮な雰囲気になっても、それは変わらない。

 何も変わることはなく、僕は彼女の演奏に囚われている。


 僕の身体は、彼女の演奏全てを受け止めようと身じろぎすら許さない。

 そして僕の目は彼女を追い、僕の耳は彼女の音だけを拾う。



 跳ねるように細かく奏でる指先。音も一緒に鍵盤の上で跳ねているように見える。

 まるで音符の兎が鍵盤の上で踊っているかのようだ。


 もはや、どの指がどの音を出しているのか分からないほどに、速く、果てしなく鍵盤を叩いている。淀みなく一定のリズムで。


 ――――ああ、なんて美しくて、まぶしいのだろう。


 舞台の上でピアノを鳴らす彼女。高校で見てきた彼女じゃない。

 遠い。はるかに遠くて、まばゆい。


 彼女は僕と同い年。

 同じだけの時間を生きてきたのに。

 彼女は光り輝いて、僕は路傍の石。


 のんべんだらりと生きてきた僕なのだから、それも仕方ない。

 彼女には才能があるから、なんて言葉で片付けられない。

 ピアノが上手くて才能豊かな人たちはもっとたくさんいる。それは彼女が音大附属の高校に落ちたことからも明らか。


 だから、才能なんて簡単な言葉じゃ表せないはずなんだ。彼女が発するこの輝きは。

 彼女は本気でピアノに取り組んできた。それが僕と彼女の差だ。たぶん、それなんだ。


 僕の気付きに関係なく、曲は進んでいく。

 彼女は曲の世界に入り込み、僕は自分の世界に入り込む。



 彼女の指がパタリと止まり、メロディーが途切れた。そして、数度の和音が響く。今までの余韻を楽しむかのように。


 ショパンの世界から覚醒した彼女。

 両手が鍵盤から離れていく。


 ――――終わってしまった。


 彼女の演奏が終わってしまった。

 身を揺るがすような音の波も、人生観が揺さぶられるような眩しさも。

 終わってしまった。

 終わってしまったんだ。

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