目覚め

鳴平伝八

目覚め

 外からは誰のものと言えぬ会話が耳に入ってくる。

 時折、車の走行音が聞こえ、通り過ぎるたびに話し声がさえぎられる。

 ただ、僕にとってそんなものはどうでもよかった。生活の中で自然と耳に入る音のことなど。


 戸棚から見栄えが良いとは言えないコップを取り出す。

 こんなことなら、かわいいコップを買っておけばよかった。

 そんなことを考えながら、流しの横の調理スペースにコップを置いた。


 冷蔵庫まで移動すると床が軋みギーギー音を立てている。この部屋を借りたときから鳴っており、僕にとっては当たり前の音だ。

 冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。コップの隣にはドリップしたコーヒーが出来上がっている。

 コーヒーを半分ほどコップへ移し、そこへ牛乳を注ぐ。

 ガムシロップは3個、準備はできている。


「そろそろだと思うんだけどな」

 冷蔵庫の反対側にある時計を確認すると、ちょうど10時を指していた。

 時計を見ることで、静かな部屋に秒針の音が響いていることに気が付く。


 牛乳パックを冷蔵庫に戻そうと、体の向きを変える。

 視界の右端に、何かの気配を感じた。それは、思い込みかもしれないし、はたまた願望かもしれない。何かが動いたと感じた。

 反射的にそちらに視線を送る。

 そこには先ほどまで女性が眠っていた。すやすやと心地いい寝息を立てて。

 その彼女が体勢をねじって、今にも起きようとしている。

 僕は嬉しくなって、牛乳パックをすぐに置き、彼女の元へと足を進めた。


 彼女が起き上がるのも、僕の視界や体の動きもすべてがスローに感じた。走馬灯を見るときはきっとこんな感覚なのではないかと思う。


 彼女を初めて見たのは行きつけの喫茶店だった。髪を一つに結んだ彼女は上品にコーヒー牛乳を飲んでいた。

 そこの喫茶店はコーヒー牛乳が有名で、ドリップしたコーヒーと牛乳の混ぜ合わせる比率をお客の好みに合わせてくれる。もちろんシロップや砂糖も選べる。

 コーヒー牛乳に口をつけ、おいしそうに笑顔を浮かべる姿に心を奪われた。

 一目惚れなんて言ったら、いい大人が何を言っているのかと怒られそうだ。しかし、人が恋に落ちる瞬間を身をもって体感してしまったのだから仕方がない。


 彼女の比率は4対6でコーヒーが多め。

 ガムシロップは3個。

 これが、その女性のお好みだった。

 もちろん、準備万端だ。


 換気扇がカタカタと音を立てている。

 時計の針がカチカチと時間を刻む。

 彼女が目をこすり、僕に気が付く。

 僕は彼女のそばに屈みこみ、起き上がった彼女に視線を送る。

 この一輪の花の目覚めが、こんなにも美しく、愛おしく、どこか儚げなものだとは……如何様に想像できただろうか。

 僕は至福の時間を感じながら、彼女が寝起きで目をこするのを眺めていた。


 カタカタカタ


 カチカチカチ



「おはよう、ハナちゃん」






「んー……おじちゃん、だぁれ?」

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目覚め 鳴平伝八 @narihiraden8

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