第21話 あなたの存在が世界を守る
ややあって、イェルド様がぽつりと言った。
「アンナさんが王都で輸送部隊の一員として働いてくれていなければ、この世はとっくに滅んでいましたよ」
震える唇を押さえつけるアンナの手を、イェルド様がそっと取り上げた。そしてそのまま自分の頭に乗せた。アンナの手のひらにサラサラの髪の毛が触れる。
「このひどい呪いから世界を守っているのは、アンナさんでしょう?」
シルクのような髪の毛の、あまりの肌触りのよさにアンナの涙がちょこっと引っこんだ。
そしてこの髪の毛を外敵から守るということは、呪いから世界を守っているというふうにも見えるのか……と、涙の代わりに鱗が目から落ちた。
イェルド様が止めないのをいいことに、やわやわと髪の毛を指先で弄ぶ。自分のくせっ毛では体験したことがない指通りのよさだった。
アンナの指にくすぐったそうな顔をしながら、イェルド様は続けた。
「それだけではなくて、私はアンナさんのおかげで戦場を生き延びることができました」
なんのことかわからずに首を傾げるアンナに、少し遠くを見ながらイェルド様は話し出す。
前線基地を襲撃したグリフォンの群れによって、イェルド様をはじめ主に治癒魔法を使う後方部隊のほとんどが重傷を負ってしまったこと。さらに間が悪いことに、ポーションの輸送中にも魔物の襲撃を受け、前線に着いた時にはその瓶はほとんど割れていた。
無事だったのはアンナが結界を施した箱のポーションだけで、それはその時に大怪我をして死にかけていたイェルド様に最優先で使用されたのだという。
そのおかげでイェルド様は一命をとりとめ、さらに彼に治癒魔法をかけてもらうことができた重症者たちも助かった。
それがあったからこそ前線維持することができたし、勇者パーティーは魔王討伐だけに集中できて魔王を討つことができた。
「アンナさんが王都に出稼ぎに来てくれたことが……それだけでなくアンナさんが生まれてきてくれたことが、私をはじめ多くの人間を救ったのです」
あまりに優しい言葉に、アンナは思わず頬を緩めてうつむいた。
「アンナさんの存在が、世界が滅ぶか否か、運命の分かれ道でした。あなたの存在が魔王から世界を救ったのです。そして今は呪いから世界を守っている」
落ち込むアンナを慰めるためとはいえ、ちょっと褒めすぎではなかろうか。
アンナは慌てて首を振った。天敵から逃げる蛇のように、枕にくせっ毛がうねうねと広がる。
「私はただ王都に出稼ぎにきただけです! 家族の同意も得ずに……今思うと笑っちゃいますね。だってそんなことしなくても父は領地を立て直せたっていうんですから……」
「いえ……アンナさんの働きがなければ、セーデン男爵領は立ち行かなくなっていたと思いますよ」
イェルド様が気まずそうな表情で言った。聞けば、アンナに依頼を出す前に陛下主導でアンナの身辺調査をしたという。その際にアンナが領地を離れて王都で働いている理由も調べられたのだそうだ。勝手に調べたことと、それを見てしまったことをイェルド様は謝った。
もしもアンナやその家族や周辺の人間が問題のある人物だったり、邪神教徒との繋がりがあった場合は結界を頼むなどもってのほかである。しっかり精査するのは当たり前のことだ。
むしろ世界の一大事に対し、よくもこんな頼りない田舎娘を頼ろうと思ったものだ。謝る必要など何もない。
「その調査ではアンナさんのお父上が領地の危機に対して、何かしらの対策を講じている様子は見受けられませんでした」
「え……父は、何もしていなかったんですか……?」
「はい。私たちは、だから次期当主のアンナさんが王都で働いていることに、大いに納得したのです」
胃にもやっとした重いものを感じて、アンナは眉根を寄せた。あの時、父は「私がなんとかできた」と言っていたのに。
「私はアンナさんが領地を救うために王都へ出稼ぎにきたことを立派だと思います。私も故郷を離れて戦地へ行った身ですから、その大変さはよくわかります」
「そ、そんな! 魔王討伐の重責と比べたら全然違いますよ!」
アンナは暗闇の中でパタパタと手を振った。
出稼ぎと魔王討伐のための出兵を同じように語られると困ってしまう。
「同じですよ」
暗闇の中に薄く差し込む月の光でロゼゴールドの瞳が光る。イェルド様はその宝石のように美しい瞳で真っ直ぐにアンナを見つめると、真剣な顔をして続けた。
「アンナさんのご家族を悪く言いたくはないですが、私は彼らの言動が腹立たしい。自分たちを守ろうと王都で戦う娘に対し、はしたないなどとよく言えたものだと思う」
魔王討伐と領地のための出稼ぎ。
どちらも守るべき人たちの命を守り、路頭に迷わせないようにするという点では同じだとイェルド様は言った。
どちらも人を守るための戦いだと。
「私の元婚約者は一緒に戦わなかったと、アンナさんは言ってくれたではないですか。花を信頼して仕事をしようと近づいてきた虫を急に食虫植物になって襲うような行為だ、と。失礼ながら、私はアンナさんのご家族や婚約者も豹変した食虫植物に見えますよ」
イェルド様は穏やかに、けれどわずかに眉を寄せた。
「あの時アンナさんに言われて初めて、自分の中のもやもやとした婚約者への感情を自覚しました。一緒に戦ってくれなかった、その努力すら放棄した彼女への失望と、その価値すらないと言われたに等しい自分への失望。それがとても虚しかったのだと」
その言葉に、似たような胸の痛みを抱えたアンナはため息をつく。
失望。
心の中に冷たい風が通り抜けるような虚ろな痛み。
アンナが思わずイェルド様と繋がった手に力を入れると、イェルド様も同じように力をこめて握り返してくれた。
「一緒に戦ってくれるアンナさんが、守ると言ってくれたアンナさんの言葉が、私はとても嬉しかったのです。あなたがいてくれて本当によかった。アンナさんは私の救世主です」
冷たい部屋に暖かい空気を入れるように、虚しい心の中にイェルド様の言葉が満ちていく。励ましてくれるイェルド様の心遣いも、その素直な言葉も、単純にとても嬉しかった。
アンナの心が少しだけ復活したのがわかったのか、イェルド様は目尻を穏やかにほころばせた。
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