第12話 ありがとうという言葉
父からの手紙など、この五年間でほとんど届いたことがない。
季節の変わり目や家族の誕生日などアンナは折に触れて実家に手紙を送っていたが、それに対して返信が来たことはほとんどないのだ。
逆に彼らからそういった手紙が来たこともなく、連絡があるとすれば「雨漏を直す金がない」とか「妹がうっかりワインをこぼした絨毯を買い換えたいけど金がない」とか「社交に着ていく夫婦の服を新調する金がない」とか、とにかくお金がない! という切迫したものしか受け取ったことがない。
今度はいったい何にお金が必要なのだろうか。
平和になった今、アンナが所属する戦時の輸送部隊は近々解散しお給金もゼロになるので、本当に必要なお金以外は仕送りしたくないなと思ってしまう。
我ながら心が狭いなあと少し憂鬱な気分でいたら、「どうしました?」と穏やかに声をかけられて、アンナは我に返った。
「イェルド様! 解呪は終わったんですか?」
「はい、今日の分は」
「無事に終わって良かったです。……あの、なんか、髪の毛の艶が増しましたね……」
「そうですか?」
首をかしげるイェルド様の髪の艶が解呪前・解呪後で明らかに違う。
「呪いって髪の質まで下げるんですかね?」
「どうでしょう? ああでも、解放感はあります。合わない帽子を調節して少しだけ余裕ができた、という感じの。そのせいかもしれませんね」
イェルド様がそのまますっと左手をアンナに差し出してきたので、アンナは手紙をテーブルに置いて反射的に右手でイェルド様の手を握った。そして彼はそのまま流れるようにアンナの隣に座る。
「すみませんが、また結界をお願いします」
「お任せください!」
胸を叩くアンナに、イェルド様は「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
魔王討伐の際、前線で敵味方共に「悪夢」とよばれていたらしいイェルド様だが、実際に会ってみればほんわかとした笑顔の優しい男性だった。
一応ワカメ頭の田舎娘とて女性である。男性と同衾という乙女の非常事態にどうなることかと心配していたのに、全く身の危険を感じることなく熟睡できた。そのうえアンナの魔法のおかげでよく寝れたことを「ありがとう」と笑顔でお礼を言われてしまった。邪な思いなど一切ない素晴らしく綺麗な笑顔だった。
髪の毛に天使の輪を輝かせるキューティクルお兄さんは、そのキューティクルを支える毛根だけでなく心根も天使であった。
イェルド様のお礼の言葉を聞いて、アンナは何かをしたことに対してお礼を言われたことが、ここ最近なかったことに気がついた。
もちろんペンを落とした上司に拾ってあげて「ありがとう」とか、そういう些細なものはある。ただ、アンナしかできないことを、アンナがすることによって「ありがとう」を言われた記憶がないのだ。
たとえば実家のセーデン家へ送ったお金に対しても、何に使ったという報告を受けることはあっても、その報告書の片隅にでも感謝の一言が書き添えられていたことはない。
実家や領を立て直すために王都で仕事をすることは、セーデン男爵家の次期当主としてやって当たり前のことだ。いちいち感謝してほしくてお金を送っているわけではないし、それを期待して仕事をしているのでもない。
ただ、今朝ほんわかとした笑みと心の底からの「あなたのおかげで助かりました、ありがとうございます」をイェルド様から貰ったアンナは、そういえばそういう言葉をかけてもらったのはいつぶりだろうか……とも、思ってしまったのだ。
それは何か夢中になっていて前が見えない状態から我に返った時のような、そんなふとした気づきだった。
ありがとうという言葉は人を動かすものだ。
今だって、イェルド様の「ありがとう」を聞いたらやる気がむくむくわいてきた。
輸送部隊の仕事に誇りを持つことができたのも前線から送られてきた感謝の手紙のおかげだった。それまでは知り合いもいない王都での生活がただただ不安で、日々の仕事も指示されるままにこなしているだけだった。
今では非常事態に結成された輸送部隊が解散しても、本隊のほうで働き続けられたら幸せなのにと思うほどである。
王都に来たのは実家を立て直すためだし、そのぶんのお金を稼ぎ終えたらアンナは帰らなくてはいけない。婚約者も結婚を待っていてくれるし、子供が女二人しかいないセーデン男爵家の長女として家を継いでいかなければならない。
いくら仕事が楽しくても、そしてやりがいを感じていても、やりたいことだけをやれる立場ではないのだ。アンナにはセーデン男爵家の歴史と、それを支えてくれる領民たちに対して責任がある。それを忘れてはいけないのだ。
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