第7話 =「世界」

 「髪が、世界を滅ぼす……」


 ごくりとアンナの喉が鳴った。飲み下せない事実は空気の塊を飲んだように気持ちを塞いで痛む。

 何より飲み込めないのは、なんでそんな世界がひっくり返るようなことを、路傍の小石のごとき存在に軽々しくばらしたのかということだ。


 アンナは何も知らぬ小石として、高貴なたんぽぽたちの足元に転がっていたかった。


 つつぅ……っと紺色の瞳から一筋の涙が流れる。

 「世界滅亡」という言葉から発せられる重圧に、アンナはいっぱいいっぱいだった。


 感情の爆発とともにあふれ出した涙をシルクのハンカチで拭ってくれたのはエレオノーラ様だ。しかしそれのせいでネガティブ負債がまた増えた。黒字に転じる気配もみえない。


 「すみません。私があなたのことを思い出してしまったばかりに、酷い事件につき合わせることになってしまいました」


 アンナに心底申し訳なさそうに声をかけたのは、もはや〝世界〟そのものといっても過言ではない頭髪を持つイェルド様だった。彼の美しいロゼゴールドの目元には、よく見ればどんよりと青黒いくまが浮いている。


 自分よりももっと酷い目にあっている人からの謝罪に対して、アンナはどうして小石をほっといてくれなかったのかとめそめそすることができなくなった。

 泣きたいのは自分の髪に世界の運命を託されてしまったイェルド様のほうだろうから。


 その「髪」=「世界」な頭を持つ兄の妹が、渋い顔をして言った。


 「どこから呪いのことを聞きつけたのか、昨日のパレードで終末論を掲げる邪神教徒たちが兄を襲いました」


 「え!?」


 髪は、髪は大丈夫だったのか?!

 いくら宗派が違うからといって他の神を、……髪を? 襲うとは悪逆非道な振る舞いである。


 「私も一応は結界魔法を使えますし、幸いエドガーが守ってくれましたので髪には傷ひとつつきませんでした。ですが……」


 「俺はこの国の人間じゃねえし、四六時中イェルドに張り付いてるわけにもいかねえしよ」


 エドガー様がイェルド様の後ろに控えていたわけに納得して、アンナは深いため息をついた。


 「そこで思い出したのがあなたの存在でした。正確に言えば、あなたが箱に結界魔法を付与したポーションの存在です」


 「何か不備がありましたか!?」


 雇用期間満了を待たずに今この瞬間、無職になるかもしれない可能性が浮上してきた。アンナの青ざめた顔に、イェルド様が慌てて手を振った。


 「いいえ! あの混迷を極めた戦いの中で、むしろ一度も不備がなかったことを思い出したのです」


 「それを受けて神殿に提出されたセーデン嬢の魔法届けを調べました」と、司祭様が言う。


 「特殊な補助効果のある、強力な魔法をお持ちですね」


 「そ、そんなことはありませんが……?」


 アンナの魔法は空間属性の結界魔法だ。

 それに加えて〝結界魔法で覆った空間内にあるものは絶対に傷つかない〟という、けっこう特別な補助効果もある。


 こういうと魔王討伐のための魔法使いに選ばれてもおかしくないようなすごい魔法に聞こえるが、指定できる空間の容量がしょぼかった。ちょっと大きめのスイカが二つ入るかな、くらいの容量しかないのだ。

 さらに付与魔法の一種なので、魔法をかけるのに時間がかかる。


 一度発動させれば対象に触れている限りほとんど魔力消費なしに効果は発揮し続けるが、手元を離れる場合は魔法を増幅する魔石の力を借りてようやく一ヶ月半程度の持続力である。


 「微妙だと、思います……」


 水などの四大元素が属性の結界魔法のように瞬時に展開して敵からの攻撃を防ぐ、という瞬発力がないため戦いには使えない。

 魔法が発現する人間がまれであるなか魔法が使えるというだけでもすごいと思うのだが、こういう理由で家族からの評価は著しく低かった。


 「確かに効果の範囲は限定的だが、使いどころによっては強力だ。近衛にスカウトしたいくらいだよ」


 近衛騎士団の団長様が、アンナの強張った顔を見て場をほぐすように明るく言う。ぜひとも無職になった折にはよろしくお願いしたいと思いつつ、彼の言った「使いどころ」という言葉に、まさかと視線を上げた。


 「髪を、守る……」


 視線の先にはスイカ二個分よりはるかに小顔なイェルド様の、キラキラと輝く金髪があった。

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