第29話 料理の対価
「伊波?」
「……」
「おーい、伊波ー!」
「……」
「いーなーみー!!」
「はっ!? えっ、な、何ですか!?」
「何ってわけじゃないけど、ぼーっとしてたから。どうかしたの?」
パン屋さんのキッチンの中。
クッキーは作り終わり、包装も完了。あとはこの厚紙に値段を書いて、商品と一緒に店前の長机に並べるだけ。
なのだが、手が震えて数字が書けない。
「……す、すみません。ちょっとお腹痛いので、先に商品並べといてもらっていいですか?」
「あ、うん。いいけど、大丈夫?」
「はい。お願いします」
トイレに駆け込み、一瞬吐きそうになったが何とか堪えた。
便座に腰を下ろして、どっと息をつく。
頭を掻いて、顔を覆って、自分の不甲斐なさに歯噛みする。
厚紙を前に油性ペンを握った瞬間、自分の店を始める前のことを思い出した。
慣れないながらパソコンを叩いて、メニュー表を作っていた時のことを。
あれは楽しかった。
利益を計算しながら、これくらい取ってもいいかなとか、ここは赤字ギリギリでやろうとか、値段を決めて。印刷して、ラミネートもして、角もハサミで切って丸くして。無駄に角度を気にしながら、テーブルに置いて。
――で、全部燃えた。
プラスチックが焼ける嫌な臭いが今でも鼻に残っている。
塵になったメニュー表が顔に当たり、酷く熱かったことが脳裏を過ぎる。
「落ち着けー……ダメだろ、こんなとこで油売ってちゃ。バカなのか、俺は……くそっ……!」
内心自分に唾を吐くも、身体は一向に動かない。
動画や配信で作る料理も、普段ハクさんに振る舞う料理も、あくまでただの料理だ。
しかし、ここに数字を書けば商品になり、陳列すれば商売となる。一度手酷く失敗している店を、もう一度始めることになる。
ハクさんと一緒なら大丈夫だと、イベントへの参加を決めたのは俺なのに……。
こんな直前になってトラウマを思い出し、縮こまっている自分に嫌気が差す。
「……また失敗したら、どうしよう……」
俺の身に起こったような不運の連続は無いとしても、例えばまったくお客さんが来ないとか。
……いや、それはないか。
ハクさん、人気者だし。
じゃあ、実はクッキーがすごく不味いとか?
あり得ない、とは言い切れない。
ここ数年で、俺の料理を食べたのはハクさんと猫宮さんたちだけ。
彼女たちは美味しいと言ってくれたが、他の人までそうとは限らない。むしろ彼女たちが、少数派って可能性もある。
もし美味しくなかったら、きっとハクさんまで大勢から悪く言われてしまう。
「……っ」
嫌な妄想がぐるぐると頭の中を回る。
失敗。
失敗。
失敗したら。
もし、失敗したら。
俺のせいで。
そうなったらハクさんも俺に愛想を尽かして、自分の仕事が何なのかを思い出すのではないか。
そして殺し屋稼業に戻り、初めて会った時のような冷たい顔で毎日を過ごすのではないか。
嫌だ。
それは嫌だ。
嫌なのに。
怖くて、立ち上がれない。
「――伊波っ!!」
突然トイレの扉を叩かれ、背筋が伸びた。
「な、何ですか?」
「大変! 大変なの! すぐに来てっ!!」
ハクさんの焦った声。
これは何か、とてつもないことが起こった証拠。
……俺のせいだ。
たぶん。
きっと。
そうに違いない。
怖くて堪らない。
逃げ出したくて仕方ないが、行かないわけにはいかない。
吐きそうな自分の尻に鞭を打って、どうにか彼女の背中を追う。
「見て! ど、どうしよ! どうしたらいい!?」
「……は、はい?」
案内された先で見せられたそれに、俺の口から気の抜けた声が漏れた。
膨らみ切っていた不安や恐怖が、ふしゅーっと音を立てて抜けていく。
「……どうって、何がです?」
「いやだって、まだ値段決まってないし! でも、勝手に取っちゃってるし! これって日本だとどうするのが正解なの!? ぶん殴っちゃまずいよね!?」
「それは超絶まずいですね」
親とはぐれたのだろうか。
三、四歳くらいの男の子が、クッキーの包装の封をほどいて今まさに食べようとしていた。
確かにどうしたものかと数秒考えていると、「こらぁああああああ!!」と凄まじい怒声をあげながらお母さんらしき人が飛んできて、男の子の頭に思い切りゲンコツを食らわせた。……あっ、洋菓子屋さんの奥さんだ。
「この子は本当にもう!! それ、泥棒だからね!! 悪い子にはサンタさん来ないよ!!」
「あーっ! やだやだ! サンタさんにはないしょにしてて!」
「じゃあまず、伊波さんたちに謝りなさい! ほら、ごめんなさいは!!」
「……ご、ごめんなさい……」
目に涙をいっぱい溜めて、男の子は頭を下げた。
こういうの、懐かしいな。
俺も小さい頃、この時期になるとサンタを人質にされたっけ。
「あ、あの、すみません。うちの子が勝手に……目を離すとすぐウロチョロして……。お代はいくらでしょうか?」
「えっ……あ、えっと、その……」
お代。その言葉に、忘れかけていた不安が再燃する。
言葉が詰まっていると、視界の端で男の子がクッキーを手に取った。
子供の口には、少し大きいサイズ。
それをどうにかこうにか、一口で頬張る。
「んーっ! うっま! これおいしー!」
「ちょ、あんたはもう! まだお金払ってないんだからね!」
ボコンと、もう一発ゲンコツ。
それでも男の子は懲りず、二枚、三枚と頬張ってゆく。
嬉しそうに。
美味しそうに。
「伊波はすごいでしょ! 何作っても美味しくなっちゃうんだよ!」
「うん、すごい! パパのよりおいしいもん!」
ふふんと得意げに胸を張るハクさん。
男の子は、半ば強引に母親の口にクッキーを押し込む。「あら、ホントにパパより上手……」と呟いて、すぐさまハッと目を剥く。
「す、すみません! まだお代、お支払いしてないのに!」
「仕方ないよ、美味しいもん。ねっ、伊波?」
「……」
「伊波、どうしたの?」
「……あぁ、いや、ははっ。何でもないです」
頬が緩む。
表情が制御できない。
自分の単純さに呆れてしまう。
美味しい――たったそれだけで、たった一言で無くなる程度のものなのか。俺の不安とか焦燥ってやつは。
「……お代、でしたよね。クッキーは300円です」
「ジンジャークッキーも美味しいよ! よかったら一緒に買って!」
「あ、じゃあそっちもいただきます」
「では、併せて600円になります。……はい、ちょうどで。ありがとうございます」
500円玉が一枚と、100円玉一枚。
料理の対価として、初めてお金をもらった。
動画や配信での収入は、全て振り込みだから忘れてたけど……。
誰かに貰うお金って、こんなに重かったんだな。
「心配しなくても、皆美味しいって言ってくれるし、全部売れるよ」
「えっ……?」
遠ざかって行く男の子に手を振りながら、ハクさんは涼しげな目をこちらに向けて言った。
見透かされてたのか……。
俺ってもしかして、結構わかりやすい?
「それに、もし売れ残ったら私が買うから大丈夫! 私、伊波の作った料理が世界で一番好きだもん! むしろ私の食べる分が残っててラッキーって感じだよ!」
へへーんとあどけない笑みを浮かべて、喝を入れるように俺の腰を叩いた。
……やばい。
ハクさんの存在がありがたくて、ちょっと泣きそうだ。
ダメだぞ、俺。
こんなところで泣いたら笑い者だ。
「伊波さん!!」
「っ!?」
突如、洋菓子屋の旦那さんが血相を変えてやって来た。
さっき奥さんと息子さんがクッキーを買って行ったが、何か問題があったのだろうか。異物混入とか、口に合わなかったとか。
「さっきうちのが買ってきたクッキーだけど――」
ど、どうしよう……。
「すっごく美味しかった! マジでビックリしたよ!」
「……へっ?」
「伊波さんってお菓子系の専門学校とか通ってた? そういう店で修行してたとか?」
「いやー……我流、ですけど。市販のものの成分表見て再現したり、お店で食べて味から材料推測して作ってみたり、そうやって覚えたのをかけ合わせたり……い、色々やってまして……」
「うわぁ、若いのに勉強熱心だね! よかったら、レシピとか教えてくれると――」
「バカ! 伊波さんを困らせないの!」
またしても奥さんがやって来て、今度は旦那さんの頭にゲンコツを食らわせた。
いやだって、と旦那さんは食い下がるが、奥さんの方は早く店に戻れと腕を引く。
「あのっ! 作り方は今度動画にまとめて出すので、それを見てくれればわかると思います……!」
「ホント!? 助かるよ、ありがとう!」
引きずられていく旦那さんに手を振って見送る。
ハクさんは身体を揺らしてドンと俺を小突き、「よかったじゃん!」と自分のことのように嬉しそうに言った。その表情の眩しさに俺は目を細め、若干俯きながら頷く。
「あのー……」
見知らぬ女性に話し掛けられ、「はいっ」と背筋を正す。
「これって、もう買える感じですか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
「どっちも300円だよ。すっごく美味しいから、両方買ってくれたら嬉しいな!」
俺には絶対真似のできない無遠慮な物言いに、女性はくすくすと笑って「じゃあ……」と両方手に取った。
――――――――――――――――――
あとがき
明日から新作ラブコメ始めます。
また、次話、第二章最終話です。
面白かったら、レビュー等で応援して頂けると執筆の励みになります。
よろしくお願いいたします。
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