第19話 すきだよ


「ちゅー……ですか?」

「うん」

「は、ははっ。ダメですよ、ハクさん。酔ってそういうこと言って、あとで後悔しても知りませんからね?」

「しない」

「……い、一旦どいてもらっていいですか? キスの件については、それからゆっくりと話しましょう」

「やだ」


 ダメだ、らちが開かない。

 無理やり振り解こうにも、下手なことをして怪我をさせたくないし、そもそも凄腕の殺し屋から逃れられる気がしない。スマホを取ろうとした時みたいに、すぐに捕縛されるのがオチだろう。


:もうやっちゃえよ

:やっちゃえ!

:キース! キース!

:いっけえええええええええ!!

:ハクさんいいなー


 活気づくコメント欄。


 これ、あれだ。

 修学旅行とかで誰かの告白を茶化すイベントにそっくりだ。

 学生時代、あんなのに巻き込まれたら最悪だな、と遠目に見ていたが、まさか大人になってから経験するとは。


 よし。ここは一つ、別の方法でいこう。

 押してダメなら引いてみろ、という。ダメだダメだと拒絶するばかりでなく、あえて一歩前に出れば落ち着くかもしれない。


「ハクさん……ちょっと失礼します」


 そっと彼女の背中に腕を回し、やや強引に抱き寄せた。

 ぎゅってして、とはそもそも彼女が求めたことだ。あとで我に返ってから思い出し、怒られることはないだろう。


 ……にしても、女の子ってすごいな。


 やわらかいし、なぜか甘い匂いがする。

 程々にしておかないと、変な気分になってきそうだ。


「……ぎゅってされるの、すき」

「そうですか。よかったです」

「……でも、いなみの方が、もっとすきだよ?」

「……っ、は、はあ。そうですか」

「うん……そうなの……すき、なの……」


 耐えろ、俺の理性。

 堪えろ、俺のリビドー。


 自制心に鞭を打ちながら、彼女をいっそう強く抱き締めた。背中をさすり、気分が落ち着くのを待つ。


 よしよし、何とか上手くいきそうだ。

 あとはハクさんに水を飲ませて酔いを醒まし、何事もなく配信を再開するだけ。


 リスナーの前で一言、酔ってはしゃいでごめんね、くらい言ってくれたら妙な勘違いもいくらか防げるだろう。


「……ん?」


 ふと、コメント表示用のサブ端末に目をやった。

 ライブが終了しました、と書かれている。


 バッテリーが切れた、なんてことはあり得ない。

 おそらく、通信かサイト上の問題で強制的に切断されたのだろう。


 ……これ、まずくないか?


 俺が抱き締めた時点では、まだ配信が繋がっていた。

 切れたのは、たぶんその直後。リスナー目線だと、これ以上は見せられないから配信を閉じた、ということになってしまう。


 ずっと健全な料理チャンネルを運営してきたのに、こんな形で完全に崩壊するとは……。


 しかしまあ、別にいいか。

 酔って恥ずかしいことになっているハクさんを、これ以上衆目に晒さずに済むのだから。むしろプラスだと考えよう。そう考えなきゃやってられない。ははっ。


「うっ……ぐすっ、ぅう……」

「えっ? は、ハクさん……!?」


 じわり、じわりと。

 俺の服に、熱いものが滲む。


 部屋に響く彼女の嗚咽。鼻をすする音。

 俺の服をギュッと掴み、顔を押し付ける。


「どうしました? どこか痛むんですか?」


 首を横に振る。

 だが、すすり泣く声は止まらない。


「……おもい、だして……」

「何をです?」

「商店街での、こと……みんなの目が、こ、こわくて……っ」


 あぁ、と内心息をつく。


 ひったくり犯を捕まえた際、一瞬だけ商店街に満ちた冷たい空気。

 異物を排除しなければ、という使命感に似た何か。

 重々しい同調圧力。


 猫宮さんがひっくり返してくれたが、あれがなければかなり危なかった。

 ……ハクさん、何でもない感じで振る舞ってたけど、実は気にしてたのか。


「たすけたいって、お、思ったの……みんなのこと、すきだし……! でも、やりすぎちゃって……やっぱりわたし、殺すいがい、何もできないのかなって……!」


 白銀の瞳から、とめどなく涙が溢れて来て俺の服を濡らす。


 こういう時、すぐに言葉が出てこない。

 その代わりに、腕を流してそっと頭を撫でた。

 涙が止まるまで、ずっと。


「何もできない、なんてことはないですよ。単に今日の行動は、ハクさんのイメージとはかけ離れてましたから。皆さんが引いちゃうのは仕方ないです」

「い、いなみも引いちゃった……?」

「忘れてるかもしれませんが、俺は初対面で殺されかけてますからね。今更引くも何もないです」


 顔を上げて瞳に涙をいっぱい溜めたまま、そんなことあったっけと首を捻る。


 おいおい、大丈夫か殺し屋。

 反政府軍と麻薬カルテルを一人で潰したんだろ。凄腕ならターゲットを忘れるなよ。


「むしろ、ああやってひと助けできる人なんだなって、素直に尊敬しました。立派ですよ、ハクさんは」


 元気付けようと思って言ったわけではない。

 ただ、心の底から思ったことを口にしただけ。


 目の前をひったくり犯が通ったとしても、俺なら動けないし動かない。怖いから。

 そこをハクさんは、まばたきをする間もなく飛び出し、問題を解決してしまった。これを称賛しないなら、世の中の何を称賛すればいいのか。


「それにこの前だって、おかゆ作って看病してくれたじゃないですか。俺の命を救ってくれたのは、他でもないハクさんです。だから、仮に世の中の全員がハクさんを嫌っても、俺はずっと味方ですよ」

「ほんと……?」

「はい。むしろそうなったら、ハクさんをひとり占めできてラッキーって感じです」


 ハクさんはパチパチとまばたきをして、「なにそれ」と呆れ気味に、しかし嬉しそうに漏らした。


 両の瞳いっぱいに俺を見つめたまま、数秒の沈黙。


 一筋の涙がこぼれ、俺は慌ててそれを拭った。

 彼女はその手を取って頬擦りし、鼻先を押し当て、唇ではみ、猫のように精一杯甘える。俺は指の隅々まで淡い体温に犯され、くすぐったくて身悶えする。


「な、何ですか? 捕まえなくても、俺はどこにも行きませんよ」

「……すき、なの」

「……は、はいはい。俺も好きなので安心してください。大切な友達だと思っています」

「ちがうもん……」

「何が違うんです?」

「……そうゆーすきじゃ、ないのっ」


 ふっ、と。

 視界が銀色で満ち、むせ返るような甘い匂いが鼻を覆った。


 唇の頬の境界線。

 そこにやわらかく、温かいものが触れる。


 それが何なのか理解した時には、既に彼女は顔を離していた。


「あーあ……」


 頬を紅潮させて、いつもより控え目に白い歯を覗かせた。悪戯っぽい笑みを描きつつ、悔しそうに眉を寄せる。



「――……はずしちゃっ、た」



 その言葉に、数秒前の行為に、痛いほど心臓が跳ねた。体温が上がり、じわっと背中に汗が浮かぶ。走ってもいないのに軽く息が切れる。


 ハクさんは酔っているだけだから、と自分に言い聞かすが、綺麗とは言い難い感情が湧いて仕方がない。このまま手を伸ばして、掴んで、捕まえて、俺だけのモノにしたくなる。


 そんな衝動を、唇を噛み締めて押し殺した。

 落ち着け、落ち着け……そう胸の中で何度も唱えるも、ハクさんは再び俺の胸に顔を埋める。


 理性を侵食する、シャンプーの香り。

 服越しに伝わる、湿った吐息。


 汗ばむほどの体温。

 心臓の動き。

 確かに彼女がそこにいる、実感。


 このまま流れに身を任せてしまってもいいのではないか。――と、そんな思いが脳裏をよぎるが。


 ……ん? えっ?

 もしかして、寝た?


「は、ハクさん?」

「すぅー……すぅー……」


 凛とした顔が溶け、とてつもなく可愛いことになっていた。

 ずっと見てられるな、これ。……じゃ、じゃなくて!


「ハクさーん! おーい!」

「すぅー……ふふっ、んぅう……」

「……マジかよ」


 その後、どれだけ声をかけても、どれだけ揺すっても目覚めることはなく……。


 もうどうしようもないので、彼女を家に泊めることにした。

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