第6話 ラウラ(10)
新しく淹れたルイボス・ティーが結架に落ちつきを取り戻させたころ。鞍木の携帯電話が震えた。画面で相手の名前を確認し、英語で応答する。いくつかの会話が続いて。見守る三人は首を傾げた。
困惑の表情。
電話を切った鞍木が告げたのは、フェニーチェ劇場に仕事で来ているミレイチェと、今晩の会う約束が反故となったということだった。
「それが、トラブルがあって、急に今日は時間がとれなくなってしまったそうなんだ。明日の夕食時までには解決する、と」
「私は構わないけれど、そうなると、すくなくとも明後日まではヴェネツィアに留まることになるのね」
結架の視線に集一が頷く。
その様子を見ていたラウラが、朗らかな声で提案した。
「なら、ここに泊まっていきなさい。三人とも。ユイカとシューイチは同じ部屋で よいでしょう。昔のままに、あなたの部屋があるわ。ミスター・クラキはケントが つかっていた部屋をどうぞ」
予定通り、と いわんばかりの、おおらかなラウラの申し出に、三人は甘えることにした。これからホテルを探すのは、正直なところ手間が大きい。休憩を何度も挟んだもののオペラの公演のように長時間の演奏をやり遂げた結架も疲れているはずだ。いかに楽しかったとはいえ。
「……では、お言葉に甘えてしまいますが」
「どうぞ。寛いでちょうだい」
そうしてラウラは、前日から用意していたという夕食まで振る舞ってくれたのだった。
サラダに、パスタ。牛頬肉の煮込み。ライスケーキと、手づくりジェラート。素晴らしい腕前だった。
そして、全員が寝室に下がっていった。
ホテルには慣れている鞍木だったが、こういった
ふかふかの椅子に沈み、安心感に包まれて両目を閉じていると、微かに空気が動いた。
「ベッドは寝心地が良くなかったかしら」
頭上で囁く声に、彼は身を縮めた。
「申し訳ない。どうも、このソファが好きで」
月光の細い光の中に、猫のような瞳が光った。
「いいのよ、遠慮しないで。あの狭いベッドで熟睡できたのはケントくらいよ。あなたなら、と思ったけど、だめだったようね」
グラッパを注いだグラスを鞍木に手渡してから、ラウラが窓辺に座る。
「あなたは、ユイカと長いあいだ、一緒にいたのでしょう。でも、彼女を見る、あなたの目は優しいわ。無欲でいながら愛情に満ちあふれている。静かに燃える、焔のよう。でも蝋燭みたいに小さな気流でも揺れるような不安定さはない。いったい、あなたの心は、どうなっているの?」
「結架くんに恋い焦がれた時期は、ありましたよ。当然でしょう。でも、堅人に見抜かれはしないかと恐れているうちに、気がついたんです。自分が一番に愛されたいと願う対象は誰なのか」
ラウラは深い、しかし細い息を吐く。
「業が深い話ね」
鞍木は眼だけで微笑んだ。
「そうです。いまでは、もう、それも熾火のように かすかなものになっています。堅人の死を静かに悼むことが出来るほどには」
彼は一呼吸、黙りこんだ。
「誰もが結架くんを清らかで純粋だと言います。たしかに、そうでしょう。でも、みな気づいていない。堅人のほうが遥かに彼女より純粋なんです。危険なほど。邪悪なほど、純粋だったんです」
「そんなふうに彼を言いあらわす人には初めて会ったわ。邪悪なほど純粋。そうね。ケントにぴったり。まさしく、そうだった。彼のユイカへの愛情は諸刃の剣。彼は恋慕の鎖で、がんじがらめになっていたわ。どうやってユイカを愛するべきかなんて、まるで考えていなかった。愛しかたを ひとつしか知らなかった」
「結架くんを独占できなければ彼は満たされなかった」
「誰しも感じるものだけれど、ケントの場合、あまりにも純粋だったのね。ひたむきに、ただ、ひたむきにユイカだけを求めていたわ」
グラスを傾け、ラウラは夜空を見上げる。
「教授。あなたは、どうなのですか」
「……ケントには逢いたくないと思っていたわ。嫌っても憎んでもいない。でも、どこか忌んでいたのよ。彼が亡くなったと聞くまでは」
ラウラは、その言葉だけを明かした。
「恋慕の鎖は、誰をも苦しめる。でも、ユイカとシューイチには幸福をもたらしてほしいわ。愛とは、そういうものでしょう。歓びも苦しみも生む」
「そうですね。そして全ての感情が出揃って満ち足りる」
鞍木は、意識が遠のくまで、ラウラの供するグラッパを何杯も呷った。
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