第13話 ヒエロニムスの審判

 気品に満ちて流麗な音の連なりでありつつも、この胸いっぱいに響き渡るのは、世界を覆い尽くすほどに圧倒的な勇壮さ。

 燦然さんぜんとして誇らしく甘やかな集一のオーボエが駆け上がった高みに、豊かで清らかなフルートが軽やかに舞い降りた。小さな子どもの頃から星あかりのように仰いできた、憧れてやまない、お兄さまの魂の音色。

 この ふたりが これほど息の合った演奏をするなんて。

 フーガ的に旋律を編む、織り目の緻密な曲。

 ──なんて煌びやかで艷やかで、どれほどまでに幸福を満ちさせるの。

 恍惚となるほど整った構造に、美しい響きの音と巧みな技術が合わさって、得も言われぬ。

 夢見心地の浮遊する心で通奏低音を紡ぎ、こまやかに装飾を取捨選択しながら織っていくと、もうそれだけで天国に招かれている気がした。

 重なる旋律の対比と寄り添う音の流れが、どの楽器を追っても完全無欠の歓びを与えてくれる。わずかな隙間かんげきも無駄には発生させない偉大な父バッハの美しい仕事。和音の余韻を味合わせる短い合間に、減衰していく低音の効果を強く感じて、多幸感で満ち足りた。

 信頼を願う瞳に、挑みかける目つきが応える、その傲慢ささえ楽しげで。

 ずっと、こんなふうに合奏することを望んできたことに、ようやく気づいた。

 きっと、ヴィヴァルディとモンテヴェルディの甘い二重唱を知った、あのときから。

 私の大切な人。私を守ってきてくれた人。敬愛と尊重がもたらす穏和と安らぎのもとで燃え上がる情熱を、ともにしたかった。私の魂と肉体がすべてをかけて愛する、唯一の人のもとで。私が欲して、私を欲してもらえる、幸いそのものにして絶対的な愛慕の絆。私を生かす存在。私が生きようとする理由。

 私の音楽の天使。

 集一が照らす光を、お兄さまの風が吹き広げる。

 響いてざる互いの粒子おとが手を伸ばし、仔犬が じゃれ合うように追いかけ合う。

 軽妙でいて愛らしく、厳かさも携えた優雅。

 絶え間なく続く主題。

 ──ふたりとも、いつ息継ぎブレスしているの?

 テンポを刻むチェンバロげんの重厚を足場に、フルートとオーボエが舞い、まわり、天の星々を巡らせる。

 空気を斬れるほどに鮮明な高音にも、泣きたくなるほどの優しさが行き渡っていて。さえずる愛らしい響きが、輝くオーボエに〝続け〟と呼びかける。そして、ともに手を携えて、曲の終わりへと。

 ──どうか、このまま。

 けれど、静かに消えゆく音楽とともに、その姿も薄れゆく。

「お兄さま!」

 立ち上がって見つめる。

 やわらかく天に引き上げられている無表情を。

 その漆黒を宿す瞳と、薄い唇に。たしかに微かな笑みが見えた気がした。

「お兄さまっ!」

「結架」

 涼やかな声。

 背中から愛しい体温と気配に包まれる。

 すべての苦痛を癒してくれる、この世が終わりを迎えたとしても絶対に失えない人。

 私の生きたい理由。

 生かしてくれる愛。

 どれほど罪深くとも求めてしまう。

 あなたにも見つけてほしかった。

 ──幸せに、結架。

 蒼い空へける瞬間、確かに響いた言葉。

 私を守り、愛し、そして絶望の苦しみに叩き落とした、酷い人。気の毒な、お兄さま。死ぬときも孤高であろうとした、あなたを、どうぞ地獄にと呪ったのに。

 ──幸せに。

 かすれた声が告げた言葉。それは、炎の中でも心より願ってくれた本心からのものだと信じたい。

 涙が止まらず、目を開けていられなかった。

 だから、もう光も闇も見えない。

「……結架」

 涼やかで、心配を含んだ声。

 頬を包む温もりに目を開ける。

 鳶色の両眼が気遣きづかわしげに見つめていた。私の音楽の天使。そして、愛しい伴侶。私の世界そのもの。

「ゆめを、みたわ」

「うん」

 唐突な言葉にも集一は驚きを見せない。

「幸せな合奏をしたのよ」

 伸ばした腕を縮めて抱きしめると、マグノリアが優しく香る。痛む心を慰め、受け入れ、許してくれる。──ああ、このひとが居なくては、もう私は私で居られない。

「オーボエと、フルートとで、バッハを」

 それだけの説明で、集一は理解してくれた。

「そうか」

「生きてらしたころに、あんなふうに、一緒に私たちと演奏してほしかった。あんなふうに幸せに」

「そうだね」

 抱きしめてくれる腕と、同意をくれる声にあるのは、いつだって私を尊んでくれる深い思いやり。怒りも恨みもあるはずなのに。私と同じように。

「あなたを愛している私を祝福してほしかった」

 夢のなかでしか叶わなかった合奏。

 もう二度と、この世では望めない時間。

 完全無欠の幸福。

 けれど。

 きっと、また、夢の中でなら。

 そして、いつか肉体の時間を終えてからなら。

 ふたたび響き合えるはず。

 そのときは。

 三人だけでなく、慕わしい人々、皆で。

 どうか、いつか……


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