第12話 信堅(2)

「どうしたの?」

 どこまでも優しい声の響きは彼女に似てもいる。

 けれど。

「……なんでもないよ」

 女神アフロディーテの与えた命を宿した彫像である完璧な女ガラテイアを妹に見いだした堅人の執心を、信堅は受け止めきれない。支配と束縛でしかない熱情が、本人をもくびり殺しそうなほどで。それなのに。六花を見る自分の視線が、堅人の目のほうに寄っている。昔からの六花との想い出も堅人に搔き乱されてしまう。

 堅人の心が信堅の身体のうちで叫ぶのだ。

 ──は俺の天使じゃない!

 手術後に目覚めて最初に六花に会ったとき。実際に声に出してしまった。彼女は両眼を大きく見開いて、ほんの一瞬だけ悲壮な表情をして、それから穏やかに笑んだ。

 ──ごめんなさい。まだ、天使さまに迎えに来ていただくのは断らせてちょうだい、信堅さん。

 慈愛深い、でも悲しい声音。

 その痛みは見当違いだったが、信堅としての意識を連れ戻す力を持っていた。

 そうして自分が誰なのかを思い出して。

 でも、「厭だ」と感じた。

 どうして。

 こんなのは望んでいなかった。

 完全に消えるつもりだったのに。

 兄に蔵持を継いでもらうのが一番だと考えたのに。

 未練など残さないつもりだった。

 愛が我欲がよくとしてしか存在できないなら、この罪深い肉体ごと滅ぼさなくてはならなかったのだから。

 混乱して、自分が何を口にしているのかさえ、解らなくなった。

 ──違う誰かの言葉が混在している。

 そう思った瞬間。

 心配して必死に呼びかけてくれる六花を、手で押しのけてしまった。雄弁すぎる拒絶。本心からではなくとも。

 そんな自分の行動を自覚した直後に襲い来るのは、後悔と絶望。

「信堅!」

 すぐ横に両親と祖父も居たことに、そのとき気がついた。

 そして、気を失った。

 次に目が覚めたとき、かたわらには祖父だけが居た。

 悲痛な瞳で見下ろす視線に憐憫れんびんが満ちていて。

 病気が進んでいくごとに強まっていた周囲からの憐れみには慣れていたはずなのに。

 何故か、酷く自尊心を傷つけられた。

「信堅」

「──ぼくは、ほんとうに、信堅?」

 深く刻まれたしわに埋もれかけていた眼が、かっと開く。

「……堅人」

 掠れた囁きに、やっぱりと思う。

 であれば。何故、信堅が残っている?

「信堅。心臓が誰からのものか、家族以外には絶対に知られるな。。全身が焼けてしまったんだ。心臓も」

 だったら信堅じぶんが残っているのは、おかしい。

 本来は自分は。

「だが、弟に心臓をのこすと言って きかなかった。あの子は、この世に生まれた自分の唯一の善行を残したいと。そうでなくては生まれたことを肯定できないと。生みの母親をも恨んでしまうと、そう言った」

 悲しみが強すぎると、人は唇に笑みを浮かべてしまう。死を宣告されたとき、それを知った。そうして、自分のそれも他人のそれをも分かるようになった。

「おまえが折橋に、自分が蔵持に育っていたらと、我々をも憎んでしまいそうだと」

 兄は折橋家で、どれほど苦しんだのか。

「今更、蔵持には入れない。だが、心臓だけでも、おまえを生かすことになれたなら。それが、たったひとつだけ叶えられる幸せだろうと、あの子は言った。だから、止められなかった。死なせてしまった。おまえの兄を。それで」

 言葉を切り、祖父は慟哭どうこくした。

 沈黙のまま待つ。

 やがて、祖父が呼吸を整えていった。

「……信堅おまえまで失うなんて耐えられん。だから堅人の提案を受けた。あの子の心臓を秘密裏に摘出し、おまえに移植した。知っているのは、私と信幸のぶゆきくんだけだ。二人で実行した」

 外科医である祖父と父が。信堅を生かすために。正当な手続きを経ずして堅人の願いを叶えたと。発覚すれば、ほぼ死体損壊罪とされるだろうというのに。信堅の発病から程なくして心臓外科の道を選んだ父が、そこまでするとは。

 静かで穏やかな衝撃だった。

「罪に問われるなら、それでもいい。償えと言われるなら、何をしてでもあがなおう。だが」

 ごく短い間、言葉を切った祖父の瞳が、孫を見つめる。目を離さずに続きを発した。

「おまえには何一つとがは ない」

 まなじりが熱くなって、頬に伝っていく。

「俺は──ぼくは──生きなくてはいけないんですね、おじいさん」

 そして、そのとき完全に理解した。

 混ざっている誰かの記憶や感情が、心臓の持ち主である、堅人だと。

 これからは二人で一人なのだ。ずっと離れて生きていた双生児だったが、このさきの人生は、もう、信堅だけのものではない。

 堅人の悲哀を、本人と同じほどに理解できるのは、信堅だけ。まるで自分のもののように感じるのだ。

 ならば、堅人も信堅の心を共有するだろう。

 ふたりは互いのすべてを自己とした。

 渾然一体こんぜんいったいの存在に。

「六花。ぼくが健康そのものになったら、ぼくの妻になってくれるかい?」

 手にした琥珀色の液体を揺らして、大きな目を限界いっぱいまで見開いて。それから彼女は笑みを輝かせた。

「今すぐにでも喜んで」

 微笑みが自然に浮かぶ。

 ──ぼくらは幸せに生きられるよ、兄さん。六花は彼女ではないけれど、ぼくにとっては天使も同然なんだって、もう気づいているだろう?

 堅人の無表情が、微妙に動いた気がした。

 もう少し落ち着いたら。

 折橋家に行ってみよう。

 見てみたい。

 兄が育って、生きて、そして死を迎えた場所を。

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