第5話 結架(8)

 不敵な笑みが集一の華麗な顔にあらわれる。彼には珍しい表情だったが、これもまた、あらたな魅力として結架の目に映った。

 しかし、結架は表情を曇らせた。

「楽団の皆さんに、なんと お詫びしていいのか……」

「きみの協奏曲を彼らと演奏するよう、鞍木さんが企画を立てたよ。それで皆、大喜びさ。安定期まで待ってもらうけどね。モーツァルトだそうだよ。きみの得意の」

 明るい声に、まったく未来を危惧するような響きがないので、結架も狼狽せずに済む。

「……あなたは私を優先しすぎよ。誰かに叱ってもらわないと」

 ためいきとともに呟いた結架に、集一は破顔一笑した。

「マルガリータに言ってごらん。彼女は、僕を叱らないよ」

「彼女はマルガリータだもの」

 結架を妹のように、ともすれば娘のように甘やかすマルガリータは、その悲しみを許さない。最大限の努力で結架を幸せにするよう集一に求めるだろう。彼自身も、そう望んでいるのだから、それこそ誰にも阻めはしない。

「今回、彼女に叱られるのは、きみじゃないかと思うんだけど。ああ、でも、やっぱり僕も叱られそうだね。危うく きみを、マルガリータからも奪うところだったって」

 一瞬、結架は瞠目し、彼の発言の真意について はかりかねたが、やがて理解したらしく、小さな吐息を放った。

「……あなたを避けようとするのなら、マルガリータには近づけないものね。でも、それは、私を叱る理由だわ」

「本気で そう思うかい?」

「ええ」

 集一の指が、優しく結架の首筋を撫でた。

「そこまでして、きみが僕を避けないといけないというのは、僕に責任があると彼女は考えるかも」

 勢いよく身を起こし、激しく何度も首を横に振った彼女は熱い声で反駁する。

「ちがうわ! あなたの寛容さに責任なんて。私、ただ、あなたに許容ゆるされては いけないと思ったから」

 間髪入れず、彼は答える。

「許さないよ。結架、僕のために僕から離れようなんて、とても許せない」

 結架が息を のむ。

 亜麻色の柔らかい髪に唇を寄せ、集一は彼女の柔らかい身体が自分の腕の中で溶けていくのを感じた。安らいで、穏やかになるのを。

「きみが傍に いることこそ、僕のためだ。だから、ずっと、ともに いてくれ。一緒に生きよう。きみのもとに いさせてほしい。そのためなら、どんなことでも できる」

 かすかな吐息が、甘い芳香と ともに漂った。

「……あなたが、そう言ってくださるなら」

 結架はくちごもった。

 ラッファエッラと同じ色の瞳には戸惑いがある。

「でも、なぜ? 集一。あなたが、そこまで思ってくださるほどのものを、私は、あなたに さしあげられているのかしら。それほどの価値が、私にあるのかしら。あなたには、もっと幸せでいてほしいの。私、いまの自分が できる以上のもので、あなたに幸せでいてほしいのよ」

 もどかしげに訴えかける、結架が言わんとすることを、しかし集一には手にとるように理解できた。だからこそ、彼女が必要なのだ。いつでも自分の幸せより誰かの幸せを考える、そんな彼女が、愛しくて大切で、譲れない。

 結架の傍にいると、集一は自然に微笑む。喜びが溢れて、幸福を感じる。離れている時間も、彼女を思い出すだけで心が輝いた。

「どう言えば、きみに伝わるんだろう。きみと ともにいる幸せが僕の望む最高のものだと、どうしたら信じてくれるんだい」

 結架の頬が、星を得たように輝く。

「信じているわ、あなたの気持ちは。でも、もっともっと あなたを幸せにできる、なにかを望んでしまうの」

「じゃあ、そうだな……」

 集一は、結架の瞳を まっすぐに見つめた。微笑みを浮かべ、彼女を愛しく思う気持ちを、全身に ゆきわたらせて。

「きみの笑顔が見たい。心からの笑顔を。幸せになろうとする、きみの笑顔も、涙も、僕は好きだ。目が覚めて、最初に見るのが、きみの顔であれば、そのことに感謝するよ。そう思わせてくれる、きみの笑顔が何よりも欲しい」

 みるみるうちに、結架の瞳が潤んでいく。

「集一……」

 あふれる涙で頬を きらめかせ、結架は微笑んだ。そして、満面の笑顔になった。

「あなたを与えてくださった、すべてのものに誓うわ。私は、あなたのものよ。私の なにもかもを、あなただけに さしあげるわ。それでも、もし足りないなら、私の これから進む道は、あなたのために選ぶわ」

「僕の すべても、きみのものだ、結架」

 抱きしめあうことの喜びを、二人は感謝した。

 それは、失う恐怖ばかりを見つづけてきた結架にとって、はじめて得た、信じる心だった。

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